真宗佛光寺派 本山佛光寺

2016年1月のともしび

御親教

門主 渋谷 惠照

 本日は宗祖親鸞聖人さまのご生涯をお偲びする御正忌報恩講にようこそお参り下さいました。ただ今は四国教区、福井教区を始めとする大勢の門信徒の皆様方と共に、「正信偈」をお勤めできましたことを大変有り難く嬉しく思います。
 さて、今年も早や晩秋を迎えましたが、夏から秋にかけては、全国各地で集中豪雨による災害が頻発しました。私たちは、被災された方々に心を寄せながら、改めて自然の猛威を思い知らされたことでございます。
 また、昨今、目を覆わんばかりの痛ましく悲しい事件は絶えることなく、人々の不安や苦悩は増すばかりです。
 親鸞聖人は『浄土和讃』に、
   阿弥陀仏のみなをきき
   歓喜讃仰せしむれば
   功徳の宝を具足して
   一念大利無上なり

とお述べになられました。
 私たちは日々の生活の中で、思いがけない様々な出来事に出あいます。それにより、しばしば苦しみや不安に駆られます。それは生涯変わることはありません。このような私たち、一人ひとりを決して見捨てず「かならず摂め取って救う」とよび給う阿弥陀仏の大悲。そのみ声を聞き「南無阿弥陀仏」と申すとき、大きな喜びの世界が開かれ、この身をいただいて生きていけるこの上ない功徳が与えられると聖人はお示し下さいました。
 本山の御正忌報恩講におあいされましたことを尊きご縁として、皆様にはお念仏の日暮しをされますことを心より念じております。
 本日はようこそお参り下さいました。

平成二十七年 御正忌報恩講 大逮夜法要 御親教より
(四国・福井教区 団体参拝日)

年頭のご挨拶

宗務総長 佐々木 亮一

 新年にあたり謹んで年頭のご挨拶を申しあげます。
 新内局が発足し早や三回目の正月を迎えました。その間、時代社会に添った念仏相続のあり方と宗門の皆様に親しまれ誇りとしていただける佛光寺教団を目標に取り組みを進めてまいりました。
 さて、年頭にあたり、昨年の国内外の動きを振り返りますと、国内では、全国各地で予期せぬ自然災害や痛ましい事故、更には悲惨な事件は絶えることなく、何時わが身にも降り懸かるとも知れない一年でした。
 一方、国外に目を移しますと、世界各地で国家間の緊張や内乱・地域紛争が激しさを増し、多くの人々が難民と化し、厳しい生活を強いられています。更に、世界中を震撼させたパリ同時多発テロなど、私たちは新たな恐怖に脅かされています。
 人類が英知を結集し、多くの人々の犠牲で築きあげてきた「共に生きる」と言う悲願は、なかなか達成できそうにはありません。
 自然科学の発達により享受した高度な物質文明と、「共に生きる」という人類の悲願である精神文化との乖離が、今日の混沌とした社会を生み出していることを痛感せずにはおれません。
 人間は本来、悪性を持っていると言われます。親鸞聖人は『正像末和讃』に、「悪性さらにやめがたし」と、煩悩具足の我等にとって、悪性は逃れることのできないものであると、お示しになっておられます。
 私たち凡夫は、眉をひそめながらも、痛ましい事故や悲惨な事件に興味津々で、そこには差別意識があるだけで、所詮他人事の域からでることはありません。
 種々雑多、且つ大量の情報が乱れ飛ぶ今日、心の拠り処を持たない凡夫は、「共に生きる」という人間の原点を見失い、只々情報に振り回され、不安と苦悩をつのらせるばかりです。
 昨年の御正忌報恩講において惠照ご門主は
   阿弥陀仏のみなをきき
   歓喜讃仰せしむれば
   功徳の宝を具足して
   一念大利無上なり

と、ご和讃をお引きになり、不安におののき、死を恐れて苦悩する我々凡夫に、阿弥陀仏のみなを聴き、歓喜讃仰することで、この上ない功徳をいただくことができるのですとお示しくださいました。
 お念仏を拠り処とする私たち真宗門徒は聴聞を怠らず、歓びをもって仏徳讃歎することで、不安と苦悩に満ちたこの時代社会を健やかに過ごすことができるのであります。
 皆様と共に今年もお念仏による真の生活をしてまいりたいと存じます。

 

常照我

「眼(まなこ)障(さ)えられて」撮影 谷口 良三氏まなこえられて」撮影 谷口 良三氏

 

 雨雲が周囲の世界をどんよりとさせ、霧が視界を遮るように、私たちの愛憎の煩悩を雲霧に譬えられたのが親鸞聖人でした。
 仏さまの教えに触れても、生きている限り煩悩を離れることは出来ません。生活や将来に対しての不安や悩みを抱えて生きるしかない私なのです。
 そのような世の中はまさに霧の中を進む船のようです。見通しのきかない人生、何が起こっても不思議ではありません。
 けれど仏さまによって苦しみの原因は煩悩だとその正体を教えていただいたなら、雲霧の中でも夜の暗闇ではありません。教えは必ず明るさを感じさせてくれます。光の中にあるからこそ、霧の中を歩いていけるのです。大切なことは光に遇うことです。雲霧に目を向けず、光を仰いで前に進みたいものです。

 (機関紙「ともしび」平成28年1月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「男の子 女の子」の巻

「男の子」と「女の子」。
 もちろん個人差もあるでしょうが、遊びの内容や着るものへのこだわりなど、けっこう違いがありますね。子どもたちの様子を眺めてみるのもなかなか面白いものです。
 先日、近所の子どもたちと一緒にあるテーマパークに行ったときのことです。おみやげを買う時間となりました。
 「女の子」は、おみやげを渡す人のことを思い浮かべ、限られた予算の中から何を買うのかをあらかじめ考えて行動しています。「几帳面」そのものです。
 一方、「男の子」はというと……。誰におみやげを渡すのか、一応は頭の中にあるようです。しかし計画性に乏しく、心ひかれるものを見つけたり、友だちが魅力的なものを持っていると、飛びつくように買っています。魅力的といっても私から見ると理解に苦しむものがほとんどですが。「単純」なのでしょうか。
 皆が皆、そうではありませんが、「男の子」と「女の子」で随分違うのだと肌で感じたことでした。
 そのことを、ある日の夕食時にお酒を飲みながら話していると、それを聞いていた妻が言いました。
 「今日、私がわざわざ並んでまでして買った貴重なお酒を、もうあけて飲んでいる。途中まで飲んでいたお酒はどうしたの? 魅力的なものに飛びついているところは子どもと同じやね」と。
 痛いところをつかれました。子どもたちのことを他人ごととして見ていましたが、私も「男の子」だったのです。

 (機関紙「ともしび」平成28年1月号より)

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