2015年9月のともしび
常照我
「帰依処(きえしょ)」 撮影 谷口 良三氏
お彼岸は、太陽が真西に沈むことから「日のいにし方」、つまり西を仰いで、西方浄土を想う日といただきます。
生命の象徴である太陽が帰って行くことから、西は、いのちの帰るべき方向だと受け止められてきました。
漢字の「西」は鳥が木の上に休んでいる形の象形文字で「酉」や「栖」という言葉にも西の文字があるように、鳥たちが帰るべき処へ帰って行く姿を表しているのでしょう。
つまり、西方は私たちが安心して帰って行けるところを意味しているのです。
不安の中に生きる私たちに帰るべき処を知らせるのが浄土なのです。目指すべき方向を間違うと、生き方を間違えます。私たちは果してどこを向いて生きているでしょうか。
(機関紙「ともしび」平成27年9月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「その『あれこれ』」の巻
「あれこれ」とは、辞書によりますと「あれやこれや」という表現の略で、代名詞、また副詞ともあり、意外に微妙な言い回しのようです。
以前、野党の追求をかわすために、「人生いろいろ」と答弁した首相がいました
が、「いろいろ」とは、少しちがって、「あれこれ」は、もう少し積極的な意味をふくんでいるのでしょう。
いろいろあってそれでいい、と何でも容認するのではなく、あれこれとある中から、「これだ」と決定する、そうでなければこのコーナーも記事になりえません。
仏教が、数多くの宗派に分かれていることが、しばしば、仏教のむずかしさやわかりにくさだ、と言われます。
たしかにそう思いますが、あれやこれやの中からひとつを選ばないと、多くあってもひとつも身につかない、ということでもありましょう。
人生は長いようであっという間です。
刹那という仏教語もあるくらいで、過ぎてしまえば、本当に短く思われるのでしょう。
そうであれば、私自身の人生を真におまかせできる宗となる教え、すなわち宗教とは、「この教えひとつ」に、たったいま、出遇うということでは、ないでしょうか。
なぜなら、一度かぎりの誰に代わってもらうこともできないやり直しの効かない人生。
その人生がむなしく過ぎ去っていってしまうからです。
(機関紙「ともしび」平成27年9月号より)
和讃に聞く
正像末和讃
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう
(『佛光寺聖典』六四三頁九十七首)
【意訳】
自分の行いを振り返ることの出来ない私には、真実の心はないけれども、阿弥陀さまから賜った名号は、そんな私をも必ずすくうと呼びかけてくださっています。
偽りの善意
駅の階段を前にして、小さな子供と大きな鞄、そして赤ちゃんを抱っこしながら、ベビーカーに片手を置き、立ち尽くしているお母さんと出くわしました。条件反射的に「何か持ちましょうか?」と声を掛けると、驚きと共に喜ばれ、「ベビーカーをお願いします」と言われました。 その瞬間です、私の微妙な心の動きが表情に出てしまったのでしょう、慌てて「それが一番、軽いですから」と付け加えられました。
純粋に「助けよう」と思った私ですが、「鞄の方が持ちやすいのに…」との不満がわいたんですね。ああ恥ずかしい。ベビーカーを運び終わると、逃げるように、その場から立ち去りました。
なぜなら私の些細な善意の根底に流れている、自分の厭らしさを見せつけられた思いがしたからです。世間的に認められた善い行いであったとしても、私の思いから発した行為は、私の都合からの行為。それを恥じ、反省したとしても、所詮、欺瞞でしかないんです。
破られる善意
この御和讃で親鸞聖人が仰る「無慚無愧」。人間として当然であり、また大切であるはずの慚愧であるのに、阿弥陀さまの教えに照らされ明らかにされるのは、慚愧することなど出来ない私です。
深く自己を反省することも、批判する心も無く、他者に対しても自分自身に対しても真に恥じることも無い、そんな私にも名号として届いている阿弥陀さまのはたらき。
南無阿弥陀仏の名号によって、善意にさえも厭らしさを内包している、そんな私の欺瞞の闇が破られるのです。
(機関紙「ともしび」平成27年9月号より)