2015年8月のともしび
常照我
「荒ぶる心」 撮影 谷口 良三氏
グワッと、恐ろしい形相を見せる鬼。絶対に出遭いたくない恐い存在です。
鬼の語源は隠(おん)から来ているとも言われており、隠れている、目に見えない悪いもの、ということでしょうか。どこに「隠れた」か。そこに鬼がただの怪物と異なる深みがあります。
妙好人と呼ばれた浅原才市さんは自分の肖像画を書いてもらう時、「頭に角を書いてください。人の心をつきさし、傷つける恐ろしい角を心のうちに持っていることを、書きあらわしてください」とおっしゃいました。
人を憎んだり、恨んだりする鬼のような心を私は持っている。鬼は外にいるのではなく、実は隠された自分の姿なのです。
今年、戦後七十年。自分たちの内にある鬼の恐ろしさを認め、真剣に向き合う、大切な時です。
(機関紙「ともしび」平成27年8月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「ハッピーバースデイ」の巻
九十三歳でご往生されたおじいさん。その枕経の席には、曾孫である二歳の女の子まで、一族四世代が集まっておられました。
私がおじいさんの枕元でろうそくに火を灯したところ、それまで慣れない場の雰囲気に、静かにしていた二歳の女の子が、何やら騒ぎ出しています。
「ハッピーバースデイ!お誕生日、お誕生日!」火の灯されたろうそくを見て、お誕生日会のケーキを連想したのでしょう。
明らかに場違いな発言に慌てたお母さんが、「シッ」とたしなめますが、二歳の女の子は止まりません。私が読経を始めると同時に、
「♪ハッピーバースデイ トゥーユー……」。
とうとう歌い始めてしまいました。さらに慌てたお母さんが、女の子を連れて部屋を出ていきます。
しかし、壁一枚へだてた隣の部屋からは、さらに、「♪ハッピーバースデイ ディアおじいちゃん……。おじいちゃん、お誕生日おめでとう」。最後は、パチパチパチと拍手付きです。
もう私を含め、その場にいた全員の笑いが抑えきれなくなり、読経は中断、なんとも和やかな枕経の席となりました。
往生とは、阿弥陀さまのお浄土へと生まれ往くこと。そこは悲しみも迷いも存在しない、極楽世界だと教えられます。しかし、いくら極楽だといわれても、近しい人、ましてや自分の死を、決して喜ぶことなんてできない私がいるのもまた事実。
おじいさんのご往生を祝う女の子の声は、「悲しみ、迷いを抱えたまま、そのままで、安心して歩んで来いよ。」という、阿弥陀さまの喚び声として、枕経の席に響いたのでした。
(機関紙「ともしび」平成27年8月号より)
和讃に聞く
生死の苦海 ほとりなし
ひさしくしずめる われらをば
弥陀弘誓の ふねのみぞ
のせてかならず わたしける
『高僧和讃』『佛光寺聖典』六〇四頁七首)
【意訳】
生死(迷い)の世界は、思い通りにならず苦悩ばかりです。久遠より、ほとりのない大海に沈んでいる私たちを、弥陀弘誓の船が乗せて必ず彼の岸である浄土に渡してくださるのです。 私たちの人生は思い通りになるどころか、次々に理想が崩されていきます。そのすがたは、無辺の大海に沈んでいると譬えられます。そんな私を、必ず彼の岸に渡してくださるのが弥陀弘誓の船です。しかし、疑うのです。「あの船、大丈夫か」、「あの人も一緒に乗るのか」と。そして、自ら飛び込んで泳ぎ出すのが私です。それが、久遠より煩悩具足の凡夫のすがたです。
大病
娘が1歳の時、いのちに関わる大病になり手術をしました。いくつもの検査結果は、耳をふさぎたくなる言葉ばかりでした。
慣れない都会の駅を降り、大きな病院への道のりには、寺院、教会、お地蔵さんがありました。
「どうして、こんなことに」、「なんで私の娘が」という思いを抑えられるのは、そこで手を合わせ、お賽銭を置く時だけでした。
しかし、無事に手術を終えると、いままで聞こえていなかった周りの方々の声が耳に入ってきました。それは愚癡ばかりの私とは相反し、今後の私たちをどう支えるかというあたたかい言葉でした。いままでいただいた仏法が瞬時に消え去り、不満と不安の思いの中だけにいた私自身を恥じました。
弥陀弘誓の船
このご和讃をいただくまで、生死の苦海に沈んでいるのは私だとは夢にも思いませんでした。
自身の願いだけを、神社仏閣に懇願するすがたこそ、ひさしくしずむわれらといわれる所以であり、周りの声を閉ざすのです。
その声とは、私は常に様々ないのちと分かち合い、繋がって生かされていることでした。そこに気づけるご縁こそ、すでに弥陀弘誓の船に乗せていただいていることだと教えられました。
現在、高校生になった娘は元気に部活に勉強に励んでいます。
(機関紙「ともしび」平成27年8月号より)