真宗佛光寺派 本山佛光寺

2015年7月のともしび

常照我

「よどみなく」 撮影 谷口 良三氏「よどみなく」 撮影 谷口 良三氏

 

 皆さんは普段「河」をどんなふうに見ておられるでしょうか。
 一つのものの受け取りが、見る者や立場によって全く異なるという仏語で、「一水四見」という言葉があります。
 私たち人間が飲んだり泳いだりする「水」と見ている河、これが天人にとってはきらめく瑠璃と見え、餓鬼にとっては膿血の海に見えます。しかし魚にとってはこれが住処なのです。
 立場や感情によって見え方が変わるのです。あるのは私の自分勝手な尺度、我尺です。我尺ではかり合う世界では、物事を正しく見ることができません。
 物事には色々な側面やはたらきがあるのに、自分の尺度でしか見られない、智慧のない私。だからこそ我尺を超えた仏さまの価値観、いわば仏尺をお聞かせいただくことが大切なのです。

  (機関紙「ともしび」平成27年7月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「思い通りになる?」の巻

 私の勤務先では受注生産で電気機器を製造しており、時に、こんなことが起こります。「この部品は入手するのに二か月間かかって、いつも苦労しているから、在庫を持って対応しよう」と、在庫を仕込んだ時に限って、その部品を使う製品の注文がサッパリ来なくなる。逆に「この部品は三年間一度も使われなかったから、もう思い切って在庫を捨ててしまおう」と言って捨てると、直後にその部品を使う製品の受注が来たり。
 現実には、そんな残念な事態ばかりが起こるのではないのですが、思い通りにいかなかったことは強く印象に残るので、世の中って上手くいかないよなあと、ついため息が出てしまうのでした。
 零細企業の規模でもこんなに大変なのに、まして、今や世界中の人々が使っているスマートフォンのような一大産業において、全ての部品を、必要な時に、必要な数だけ過不足なくそろえるなんて、人智を超えている!と思います。
 実際、平常時には、その人智を超えた生産工程を成し遂げているように見えますが、東日本大震災の時には、人間が作ったシステムの限界が露呈されました。他では代替のきかない独自の部品工場が東北地方に多数あったため、部品の流通が止まり、被害のなかった地域においても多くの工場が操業停止を余儀なくされたのです。
 その時、普段「世の中うまくいかないなあ」とぼやいていたけれど、全てが思い通りにはならないのが当たり前だよね、という事実を、あらためて痛感させられたのでした。

 (機関紙「ともしび」平成27年7月号より)

 

和讃に聞く

慈光はるかにかぶらしめ
 ひかりのいたるところには
 法喜をうとぞのべたまう
 大安慰を帰命せよ

浄土和讃(『佛光寺聖典』五八一頁十首)

【意訳】

 阿弥陀如来の慈しみの光は、遠く全てを照らし、その光のはたらきに触れる者は皆、心の闇を離れ、至り届いた教えに喜びを得る。
 私たちは、大いなる安らぎと慰みをもたらす仏さまに帰依しなければならない。

 長年肺を患っておられたご門徒のご主人。つい先日、浄土へと往生されました。

 最期の一週間
  その最期は、傍で見ていて辛く、苦しいものであったといいます。そのような中、息を引き取られる一週間前、ご主人は息子さんに、「俺はこれで最期だと思うから聞きたいことがあったら、聞いとけよ」と。
 自らも伝えておかなければならない家の商売のこと、遺していく家族の生活のこと、ついには、自らの葬儀について細かい段取りまで伝えておられました。
 こちらから何かしたいことは無いのかと聞くと、「何も無い、とてもすっきりしている」と、応えられたのだといいます。
 息子さんは、「本当にありがたい一週間でした。ただあそこまで自らの最期を受け入れ、命を終えていくことが自分にできるのか分かりません」と、言われます。

 父の慈悲
 親鸞聖人は、ご和讃冒頭の慈光に、「慈は父の慈悲にたとうるなり」と注釈を付されます。
命が終えようとする中、最期まで遺していく者に願いをかけておられたご主人。
 辛い体をおして、聴聞を続けられた面影に、どこまでも慈しむ阿弥陀さまのはたらきに出遇われた、念仏の人の姿を見る思いがします。
 念仏の教えによって至り届く、そのはたらきに出遇えばこそ、どんな人生であってもあるがまま、これで良かったと引き受けていける―。
 だからこそ私たちは阿弥陀さまを大安慰、大いなる安らぎと慰みをもたらす仏さま、とお呼びするのです。

 (機関紙「ともしび」平成27年7月号より)

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