2015年3月のともしび
常照我
「私の心」(フラミンゴ) 撮影 谷口 良三氏
皆様は表紙の写真が何に見えるでしょうか。水面に映る物体は波のせいではっきりしません。これは私の心と同じです。
古来仏教では、心を水面に喩えました。煩悩を静めて智慧の眼を澄ますなら、水面は鏡のように世界を映すでしょう。しかし、波立つ心が私の見る眼を歪めて、物事を正しく見、判断することができないのです。心がものを見せているのです。
私の眼は常に波立つ水のようであり、心静めて智慧をもってまことを見ることができないと言い切られたのが親鸞聖人です。
相手を理解しているつもりで実は全く見えていない、それが私の姿だというお示しでしょう。
まことの分からない私。だからこそ、まことなる智慧の眼を持つ仏さまの仰せをお聞かせいただくことこそが大切なのです。
(機関紙「ともしび」平成27年3月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「幸せってなんだっけ」の巻
毎月、お参りに伺っているご門徒のおばあちゃんは九十歳でひとり暮らし。「近くに娘たちがいるから安心」とお元気です。
昼前になると押し車で近くのスーパーに買い物に出かけます。そこで出会う近所の方に「私もお婆ちゃんのように、元気で長生きしたいわ」、「一人で暮らせるなんてしっかりしている」と、口々に声をかけられるそうです。それを喜んでいると思いきや、おばあちゃんは「まったく他人の気も知らないで、長生きをうらやましがるけれど、そのおかげで息子の葬儀を2回も出したよ」と悲しい顔で言われます。
確かに、そうでした。
また、もうひとりのおばあちゃん。念願の二世帯住宅で息子夫婦と同居を始めました。引っ越し、片付けも終えたということでお参りに伺いました。ところがどうも様子がおかしいのです。聞いてみると不満が爆発。「孫とは、話が合わない」と言われます。それは何を聞いても「ふつう」、「わからない」、「びみょう」としか返ってこないというのです。そして、食事の時間もバラバラで、いつも一人で食べているとのこと。
「長寿」、「同居」と、表面上は魅力ある言葉ですが、通い合う心がなければ一転します。
通い合うとは「思いやり」が、言葉や表情がとなり、お互いの中に通じる心が生まれることです。
豊かになった暮らしの中で「物で栄えて、心で滅びぬよう」と昔から言われてきたように、先師の言葉が心に響きます。
(機関紙「ともしび」平成27年3月号より)
和讃に聞く
「高僧和讃」
男女貴賎ことごとく
弥陀の名号称するに
行住座臥もえらばれず
時処諸縁もさわりなし
(『佛光寺聖典』六二〇頁九四首)
【意訳】
お念仏の信心をいただくのに、男女も地位も関係ありません。阿弥陀さまの名を称えることは、歩いていても留まっていても座っていても伏していても、いつでもできます。時も場所もどんな出来事も、お念仏の功徳の障害にはならないのです。
日常の外にある修行
私は会社勤めをしているのですが、「実は実家がお寺で、本山に泊まりがけで研修に行くんです」という話をすると、よく、次のような会話になります。
「修行って何をするの?」
「いや修行じゃなくて研修…」
「もちろん精進料理でしょ?」
「いや肉も魚もいただきますよ」
「朝はすごく早いんでしょ?」
「遅くはないけど、禅宗のように3時なんてことはなくて」
「滝に打たれたりしないの?」
「いやだから、そういう修行はないんだってば(笑)」
このようなイメージの根底には、仏教とは、日常とは切り離された場で厳しい修行に励むもの、という先入観があるのでしょう。
行住座臥を選ばず
ある日、聞法会で次のようにお聞きしました。「阿弥陀さまは、人と比べては優劣をつけて一喜一憂している自分の姿に気付けよと、いつでも、どこにいても、誰にでも喚びかけてくださっているのです。それが、お念仏の教えです」と。
さて、その帰り道、携帯を開くと、今からヨーロッパ旅行に一週間行ってきます、という友人の近況報告が。途端に「いいなあ、公務員はボーナスも確実に出て、長い有休も取れて…零細企業の自分は、そんなに休めないし、そんなお金もないし」と、妬む気持ちがふつふつと湧いてきます。あっ…。まさに、すぐに人と比べて優劣をつけ、不満を抱く私がいるのです。
そのように、私自身のあり方を日々の出来事の中で真正面から問われることが、教えとの出遇いになります。行住座臥を選ばずとは、生活と仏法がひとつであるということを、お示しくださっているのです。
(機関紙「ともしび」平成27年3月号より)