真宗佛光寺派 本山佛光寺

2015年1月のともしび

御親教

門主 渋谷 惠照

 本日は、親鸞聖人様のご生涯をお偲びする御正忌報恩講にようこそお参り下さいました。
 只今は中国教区を始めとする大勢の門信徒の皆様方と共に「正信偈」をお勤めできましたことを、大変有難く思っております。
 今年の夏から秋にかけては、度々の自然災害のために、多くの尊い生命が失われましたことは、誠に悲しく痛ましいことでございました。
 親鸞聖人は『高僧和讃』に、
   生死の苦海ほとりなし
   ひさしくしずめる
   われらをば
   弥陀弘誓のふねのみぞ
   のせてかならず
   わたしける

と、お述べになっておられます。
 不安にかられ、生きることに迷い、死を恐れては苦悩する私たちの姿を、「生死の苦海ほとりなし」とお示しになられました。
 思いがけないことと出遇う、さまざまな出来事の中で、私達は悩み、苦しみます。しかし日々の生活から苦悩がなくなることはないでしょう。
 その苦悩する私達一人ひとりにどこまでも寄り添い、痛み悲しみ、摂取してすて給うことのない阿弥陀如来さまの大悲のお心を「弥陀弘誓のふねのみぞ」と「船」に喩えてくださいました。
 阿弥陀如来様の大悲のご本願の船に乗じさせていただく時、苦悩の人生はそのまま喜びの人生へと転ぜられ、苦悩することは、無駄ではなかったというお浄土の世界が開かれてまいります。
 本日ご参詣の皆様には、これからも様々な人生が待ち受けていると思われますが、それを御縁として、お念仏のみ教えを常々聴聞になり、心安らかな日々をお過し下さることを念じております。
 この度は御遠方よりようこそお参り下さいました。

平成二十六年 御正忌報恩講 大逮夜法要 御親教より
(中国教区 団体参拝日)

年頭のご挨拶

宗務総長 佐々木 亮一

 新年にあたり謹んで年頭のご挨拶を申しあげます。
 一昨年四月に新内局が誕生してから、早や二度目の正月を迎えました。
 その間、環境破壊や地球温暖化の影響なのでしょうか、世界各地で異常気象による地震、竜巻、集中豪雨、洪水などの被害が頻発しました。我が国においても同様で自然災害による痛ましい事故が続出しましたが、昨年九月の御嶽山の噴火事故は、まさに象徴的な出来事でした。大自然の営みの下での人間の無力さを思い知らされたことでありました。
 また、止まることなく繰り返される紛争、貧困による劣悪な生活、猛威を振うウイルスの脅威など不安と昏迷は深まるばかりです。
 これらの被害の多くは単に気象の変化によるものではなく、自然の摂理を無視した人間の傲慢さによるものではないかとの思いを強く抱くものです。
 更に、日々報道される子どもや弱者への卑劣な事件は、人間の人間たる由縁をも疑わせるものです。これらは、経済合理主義や物質第一主義を背景に過度な競争によって生み出された格差社会の結末ではないのかと思われます。我々が求め続けてきた共に生きると言う人類の悲願は忘れ去られたのでしょうか。また、宗教離れ、寺離れとの言葉が叫ばれて久しくなりますが、如何に捉えるべきなのでしょうか。
 人々の弛まぬ努力によって今日、我が国は誰もが生きていくことが出来る豊かな社会を実現したにも拘らず、私たちの不安と苦悩は絶えることはありません。時代社会が多様化し複雑化を遂げる中で、一層不安と苦悩は深まるばかりです。
 そんな中、昨年の御正忌報恩講において、惠照ご門主様は、「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」と親鸞聖人の「高僧和讃」を引かれ、不安にかられ生きることに迷い、死を恐れて苦悩する我々凡夫の姿を「生死の苦海ほとりなし」とお示しになり、阿弥陀如来の大悲の御心を「弥陀弘誓のふねのみぞ」と「船」に喩えてこれに乗じさせていただくとき、苦悩の人生は喜びの人生に転ぜられ、お浄土の世界が開らかれるのですとお述べになられました。
 お念仏を拠り処とする私たち真宗門徒は、日常生活の中にお念仏をいただくことで、苦悩に満ちた時代を乗り切ることが出来るのであります。
 新年に当たり皆さまと共にお念仏による真の生活を過ごしてまいりたいと存じます。

 

常照我

「新春を告げられずとも…」撮影 谷口 良三氏「新春を告げられずとも…」撮影 谷口 良三氏

 

  「息をするのも機械に頼ることになってしまいましたわ。」とは、あるご門戸のご主人。最近、呼吸を補助する医療器具を着けられた。
 これまで、三食食べても体重は少しずつ減っていた。食べたエネルギーの大半を呼吸することに使っていたからだという。
 約二万回。大人が一日に行う呼吸回数だ。その一々を意識せざるを得ない苦しさとは、いかほどのものか。あっけらかんと話されるご主人の姿に驚嘆(きょうたん)する。
 一方、我が身において、今この瞬間も繰り返される無意識の営み。去年を振り返り、今年の抱負(ほうふ)を語る私は、そのいまが抜け落ちていないだろうか。
 平成27年新春。いま、ここにある命に、お互いが「おめでとう」と言い合える。その不思議を慶(よろこ)びたい。

  (機関紙「ともしび」平成27年1月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「ストリートビュー」の巻

 インターネットの地図サイト「グーグルマップ」には、地図や航空写真だけでなく、カメラを載せた撮影車が道路から街の風景を写し、その写真を組み合わせて、あたかもその場にいるかのような臨場感を味わえる「ストリートビュー」があります。家に居ながらにして世界の街並みを画像で楽しむことができます。
 先日、この「ストリートビュー」に、自転車に乗り法衣をまとった私の姿が公開されていました。数ヶ月前、お参りの移動中に撮影されたもので、私自身、撮影車を目撃していました。
 プライバシーの観点から顔には「ぼかし」が入っていますが、知り合いなら誰かは一目瞭然。「世界デビューだ」と喜んでいるように、「ぼかし」の顔は「笑い顔」にも見えます。
 しかし、この「ストリートビュー」は問題点も多いようです。自宅に干してある洗濯物が写っていたり、泥棒が下見に使ったりすることもあるとか…。
 家に居ながら便利で快適に。インターネットは世界中に広がりました。情報のやりとりも瞬く間にできてしまいます。
 ただその分、間違った情報や知られたくない事実であっても、いったん発信されると本人の意思とは無関係に世界中に広がってしまいます。そして、それをすべて消し去ることは不可能なのです。
 ちょっとした行き違いで、取り返しのつかないことにも。
 「ぼかし」で見えない顔は、縁しだいで「泣き顔」にも「怒り顔」にも変わってしまうのです。

 (機関紙「ともしび」平成27年1月号より)

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