2014年12月のともしび
常照我
「風雪に耐える」(白川郷) 撮影 谷口 良三氏
この時期、各地の寺院では、年末恒例の行事として、「煤払い」が行われる。
今では、ほこり全般に対する呼称となってはいるが、本来、煤とは、ロウソクや灯明が燃焼する過程で生じる、炭素の微粒子のことをいう。
この一年の我が身をふり返ってみれば、絶えず煩悩の炎を燃やし、自らを焦がし続けた日々ではなかっただろうか。
自分の思いどおりにならなければ、とたんに燃え出す、いかり、ねたみ、愚痴。
真っ黒に汚れた姿は、教えの鏡によってのみ、ありありと映し出される。
さて、大掃除である。先ずはお内仏の前に座り、仏さまの煤を払いながら、払おうとしても、決して払い切ることなど出来ない、我が身の煤を見つめたい。
(機関紙「ともしび」平成26年12月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「ウケる」の巻
テレビで、お笑い番組を見ていると、よく耳にするのがこの「ウケる」という言葉です。
笑い声、拍手などがタイミングよく入り、その場が更に盛りあがるということですが、実は浄土真宗に深く馴染みのある言葉がもととなっていることは、あまり知られていません。
その昔、祖母に手をひかれて、お寺のご法座にお参りしていた頃のことです。お説教は難しくてわかりませんでしたが、お同行のあちこちから「なまんだぶ…」と声が聞こえていたことを今もしっかりと覚えています。
お説教の中で「ここぞ!」という大事なところに差し掛かったとき、阿吽の呼吸で、説教者の言葉と言葉の間にお念仏が入り僧俗共に法悦に包まれてゆく。これを「受け念仏」と言うのだと教えていただいたのは、私が成人してからのことでした。
教えを聞く者と語る者が、共に教えに遇うという具体的な相であったのです。
時代は移り変わり、お念仏の声が少なくなったといわれます。
ご法座のはじまりと終りのお念仏は申せても、あいだのお念仏は、どことなく気恥ずかしいものです。
ただ、私たちの先祖が、そうした法悦の中で、現在ただいまを生きる私に「スベる」ことのない大地としてお念仏を伝えてくださったということ。
今、ご法座に遇わせていただく度に祖母の手の温もり、そして私の口をついて出るお念仏の不思議を思わずにはおれません。
(機関紙「ともしび」平成26年12月号より)
和讃に聞く
「高僧和讃」
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(『佛光寺聖典』六二〇頁首)
【意訳】
心が煩悩にすっかり覆われている私には、阿弥陀さまの「必ず救うぞ」という誓いの光が見えていません。でも阿弥陀さまの願いは既に私に届いていて、常にはたらきかけてくださっているのです。
失業と職探し
私はお坊さんである一方、生計を立てるため会社勤めもしております。数年前、リーマンショックの余波で当時の勤務先が倒産し、職探しを余儀なくされました。社会全体が不景気のどん底で、一人の求人に数十人が殺到。応募書類を送っても送っても、なかなか面接までたどり着けませんでした。百件近く応募し、やっと三回目の面接で内定が出た会社から、土壇場で採用を見送りますという連絡が来た時には、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けました。
優劣で切り分ける私
就職活動で落ち続けると、自分がまるで価値のない存在に思えてきます。仕事に就いているのが立派な人、失業者の私はダメ人間…。
そんな風に追い詰められていた時、少しでも気が休まればと足を運んだご法座で、次のようなお話が耳に止まりました。「人と比べて優越感を持ったり劣等感を持ったりする生き方の痛ましさに気付けよ、優劣で人を切り分けたりしない阿弥陀の世界に出会ってくれよ、というはたらきかけが、お念仏です」と。
飽くことなき大悲の光
私は自分で自分をダメ人間だと決めつけ、諦めていました。でも、そんなどん底の自分をも諦めずに救いあげようとするはたらきがあったのです。それが、このご和讃にうたわれている、阿弥陀さまという飽くことなき光です。その光は、優劣で切り分けて価値がないと思い込んでいた私のあり方を照らし出し、今見ている世界が全てではないよ、と教えてくださっています。
(機関紙「ともしび」平成26年12月号より)