真宗佛光寺派 本山佛光寺

2014年10月のともしび

常照我

「白川郷 明善寺鐘楼」  撮影 谷口 良三氏「白川郷 明善寺鐘楼」  撮影 谷口 良三氏

 

 昨年度、児童相談所が通報等を受け、対応した件数が、初めて七万件を超えた。虐待が死亡へと至るケースも後を絶たない。
 一方で、個々の悲劇をある種、特殊なものとして捉え、背後にある原因を求めようとする私がいる。はたして、それは本当に意味あることなのだろうか。
 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と、静かに語られる宗祖の言葉。
本来求むべきは、何か縁あればどのようなふるまいをもしかねない人間の本質において、たまたま悲劇を起こさせないものは何か、ということであろう。
 個々の悲劇は決して特殊なものではない。ひとをひととして歩ませよう、傷つけられた心と体、その全てを必ず摂め取ろうとされる仏の切なる願いを、聞き続けていくしかない。

  (機関紙「ともしび」平成26年10月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「携帯電話」の巻

 忘れ物をすることが多くなりました。まだ年齢的に年のせいにはできず、焦っています。
 こんな時、携帯電話ならちゃんと応答してくれます。
 ちなみに私は、もう何度も収納場所、置いたところを忘れ、周囲の人の機器で呼び出してもらって発見できました。
 思えばこれは、忘れ物中の逸品にして、唯一最大の機能ではないでしょうか。
 これが出たての当初は、どこにいてもつかまってしまう、自由な時間を奪う何て不便なもの、と恨んだこともありましたが、慣れはおそろしく使わぬ日はまずなく、『仏説無量寿経』の「使嗾」されている毎日。使うより、むしろ使われています。
 さて、私より若い人で、自分の番号を私に聞かれてにわかに答えられない人がいました。
かける専門だったから、覚える必要がないのですね。何か妙にほっとしてしまいました。
 今はスマホの全盛時代です。けれど私は、これからも、最小限使えるようになったこの携帯電話をそのまま使っていこうと思っています。それというのも、川上弘美さんの小説、『センセイの鞄』で、初老の「センセイ」が教え子の女性に、「ケータイと略さず、ちゃんと携帯電話と言いなさい」とたしなめる場面を思いだしたからです。
 そうです。「ケータイ」がすなわち「携帯電話」であることはともかく、「携帯」の意味や字さえ、「忘れて」しまう時が来るかもしれませんから

 

 (機関紙「ともしび」平成26年10月号より)

 

 

和讃に聞く

 

七宝樹林くににみつ
光耀たがいにかがやけり
華菓枝葉またおなじ
本願功徳聚を帰命せよ



(『佛光寺聖典』五八六頁 四〇首)

 

【意訳】

 浄土には七宝の樹林が満ちています。それらの宝物に優劣がないように、私たちにも優劣はありません。阿弥陀のはたらきに出遇うことで、お互いがそのままの姿で輝きあうのです。
 久し振りに受け取る友人からの連絡に喜んだのも束の間。
 受け取ったメールを開いてみると、夫婦で訪れたアフリカで暴漢に襲われ、ご主人は意識不明の重体になったとの悲しい知らせでした。

 支えを求めて
 会いにいくと、友人はどうすることもできない怒りのやり場に困っていました。
 それは自分がこの先、ずっとご主人を支えていかなければいけないことに対する不安でもありました。
 大切な家族だからこそ、自分が支えたいと頑張る。結果、支えることに疲れてしまう。
 そして、自分は支えるばかりで、自分を支えてくれる人がいないと、空しい思いを抱えてしまう。
 辛い現実に向き合う友人と時間を過ごすなかで、寝たきりのご主人が必死に彼女を支えているように感じました。

 支えられていた
 和讃にうたわれている、七宝の樹林がお互いを照らし映す様子は、どの宝物も同じで、優劣がないことを表します。
 これは浄土の姿だけではなく、私たちの日常においてもいえることで、支えるのが勝っていることでも、支えられるのが劣っていることでもないんですね。支え合う姿が、いのちの事実なんです。
 ご主人の存在が、彼女の生きる動機となり、彼女の日々を支えているという事実に、出遇って欲しいと思いました。
 浄土という真実を通して、支える人も実は支えられていたと喜べる。お互いのいのちが輝く生き方が始まります。

 (機関紙「ともしび」平成26年10月号より)

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