真宗佛光寺派 本山佛光寺

2014年9月のともしび

常照我

「逆らわず」  撮影 谷口 良三氏「逆らわず」  撮影 谷口 良三氏

 

 残暑の夜、窓を開けてみれば、庭のいたる所で虫の音が。途端に、窓から入る空気もわずかではあるが、心地よくなる。
 しかし一方で、虫たちは、盛夏の熱帯夜にも同じく声を響かせていたのだろう。私が、エアコンの心地よさに身を浸し、聞こうともしなかっただけ。
 私の聞法もまた、同じなのではないか。
 聞くからには、何かを掴み取ろうと躍起になり、「我が意を得たり」と満足する。仏法に、耳を塞ぐ姿に他ならない。
 仏法を聞くということは、仏法さえも、我が意で聞こうとする、我が身を聞くということだ。
それは教えとなって、身の奥底へと鳴り響く。
 御法の秋、確実に届いている教えに耳をこらし、我が身を響かせたい。

  (機関紙「ともしび」平成26年9月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

 「育つ」の巻

 皆さんは「茶碗が育つ」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。無生物の茶碗は育つはずがない、と思われるでしょう。ところが……。
 お宝を鑑定する番組で出品された茶碗。依頼人は自信満々に何百万円の価値との予想。ところが鑑定結果は、「よく似ていますが偽物ですねぇ。」
 ガッカリしている依頼人に、鑑定士がもう一言、「しかしよく育った茶碗ですねぇ」「前の持ち主の方は本当にこの茶碗が好きだったんでしょうね。毎日触って、お茶をたてて、よく育っています。あなたもぜひこの茶碗でお茶を飲まれるといいですよ、家宝にしてください」
 この意外な大絶賛に、茶碗が育つということを知りました。
 たしかに、よく慣れた茶碗は、ざらざらした表面がつるつるになります。また次第に茶碗がお茶に馴染んでくるように感じるものです。これを「育つ」と表現したのでしょう。どんなものでも親しめば生きてくるのだ、と感銘を受けたことです。
 仏法にも「お育て」があります。仏法に親しみ、ご法義を喜ぶ人と接していくうち、自身も自然にご法義に育てられていくことを「お育て」というのです。
 しかも、直接誰が育てたというよりも、お互い仏さまからのお育てにあずかりました、と喜ぶのが味わい深いところです。
 仏さまの「お育て」の中で、お念仏を喜び、親しみながら人生を歩むこと。親しまれ、よく育った茶碗のように、何十歳になっても育ちざかりの人生です、と言いたいものですね。

 

 (機関紙「ともしび」平成26年9月号より)

 

 

和讃に聞く

 

「正像末和讃」

末法五濁の有情の
行証かなわぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく
竜宮にいりたまいき



(『佛光寺聖典』六二六頁三首)

 

【意訳】

 末法とは、釈尊の教えが深海の底にある竜王の宮に入るがごとく、修業により証を得ることはかなわない時なのです。だからこそ、阿弥陀仏の本願を聴聞できるのです。

若い頃、共同生活するお寺に住んでいた時のことです。そこの住職は日頃から、「僧侶は日常の生活から仏法をいただくのだ」との信念を貫く方で、とくに炊事、掃除、接待については徹底して教えられました。

 心くばり
 食後の洗い物はとぎ汁を使い、油もの等の皿は、薄めた洗剤で洗いました。毎朝、広い本堂の中と縁側、庫裏の廊下は雑巾がけ。冬の寒い朝は、拭いた跡が凍りつきました。
 境内は、季節により笹や銀杏が散ります。集めた葉を天日で干し、乾いたころを見計らって燃やしました。裏庭には植木鉢がたくさん並べてあります。その鉢の底の塵まで掃除をします。

 そして、お客様へお出しするお茶の加減、宴席でのお酒の好み、それを熟知し継続するのです。しかしそれは、相手に気づかれ認められることはありません。やがて、いつまでこんなことをするのかと不満が生まれてきました。

 気くばり
 ある時、礼の仕方が悪いと指摘されました。頭を相手より早く上げても遅くなっても失礼であると。それは気を配っていないからだと叱られました。「参られる方は、気を配れるお寺を望んでいる。だから、相談されるのだ」と。私は、ハッとしました。自らの行には注意を払いながらも、相手の気持ちはまったく考えていなかったのです。
 末法五濁とは、自分以外の存在が見えなくなる時です。宗祖は左訓に、「イマコノヨハ、ワルクナリタリト、シルベシ」と著されています。末法のこの世を悲嘆するのではなく、この時にこそ、無量寿のいわれを聴聞できるご縁が生まれ、気づく時なのです。

 (機関紙「ともしび」平成26年9月号より)

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