真宗佛光寺派 本山佛光寺

2014年3月のともしび

常照我

「憂春」提供 谷口 良三氏「憂春」  提供 谷口 良三氏

 

  三月は弥生。厳寒の名残のすき間、弥々と芽吹く生命が想起される。それは花開き、実をなすための準備の季節でもあろう。
 さしずめ今の日本であれば、2020年、五輪の花が開くまでの準備の季節といったところか。
 だが一方、五輪へ、という大きな流れの中、依然どこかにある苦悩の声を忘れ去ろうとする自分にも気づく。虚仮の花を咲かせ、空っぽの実をつけることになりはしないか。
 「微塵世界の有情、煩悩海に流転し…」悲しげに響く宗祖の言葉が、煩悩のまま流されざるをえない私たちをつまずかせる。  それは、一々の生命が抱える苦悩を明かし、寄り添わんとする仏の心。その無量なるはたらきを伝えんとする、宗祖の喚びかけでもある。

 

  (機関紙「ともしび」平成26年3月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

 「製造業と仏教」の巻

 「私の不注意からご迷惑をおかけし、申し訳ありません。以後、このようなことがないよう気をつけます」
 よくある謝罪文です。何かあったら、まずは謝罪と反省。日本社会の常識ですね。
 私はお寺の他に兼業で製造業の会社に勤めているのですが、製造現場のミスで不具合品を客先に出荷してしまった時など、まずはやはりそのような謝罪の言葉が交わされます。その後、「不具合報告書」に不具合の内容・発生原因・再発防止策などを記入します。
 ここで、再発防止策として「以後気をつけます」ではいけません。大事なことは、ミスをした作業員が誠心誠意謝ったかどうかではなく、不具合品の出荷を防げなかった根本原因を突き止めること。そして、人間はミスをするものという前提に立ち、どうすればミスの発生を抑制し、ミスがあった場合でもそれを出荷前に発見できるか?という仕組み作りです。
 ある時ふと、「気をつけます」という心がけでは根本的な解決にはならない、これは製造現場にも自分自身の生き方にも通ずるなあ、と自分の中にストンと落ちてきました。

 自分は何と怒りや欲望に振り回されていることか、これからは心がけを良くしよう、などと殊勝に反省してみたところで、自分の性根は変わりません。大事なのは、怒りや欲望から逃れられない自分の姿を認め、愚痴も怒りも発してしまう身の事実を通し、その私が仏さまの教えをどういただいて生きるのか?ということですね。

 

 (機関紙「ともしび」平成26年3月号より)

 

和讃に聞く

 

「高僧和讃」

弘誓のちからをかぶらずは
いずれのときにか娑婆をいでん
仏恩ふかくおもいつつ
つねに弥陀を念ずべし



「高僧和讃」(『佛光寺聖典』六一八頁八六首)

 

【意訳】

 必ず救うと誓われた阿弥陀仏の広大なご本眼の力に遇わなければ、一体いつ、この世の苦悩を卒業できるでしょう。その仏恩を深く思って、つねに念仏すべきです。

 若いころ、ある先生の法話で
「人間は必ず死ぬのだが、どんな死に方をしようと、死に臨みきちんと死に切れるのが、真実の教えに生かされているということだ」とお聞きしました。

 「死に切れる」ということばの響きが、当時なぜか「カッコいいな」と思い、ずっとそのことを考えていたものです。

  死に切れなければ

 それはともかくとして、では、死に切れなければ私たちはどうなるのでしょう。
 たとえば、芝居や映画でおなじみの「幽霊」になるしかないのでは?と思います。我執と迷妄の産物で現実には存在するわけもない幽霊なのですが、人間が、「煩悩」によってないところにわざわざつくり出すのではないでしょうか。
 幽霊を分析してみます。
 まず、髪がうしろになびいていて、これはうしろ髪をひかれこの世に未練をとどめ死に切れず、次に、足は、みずからの立ち位置、つまり現在地がわからず浮遊している状態。
 さらに手は前に突き出し、手首をダラリと下げています。
 この姿は、出たよ、という意志表示を示してはいても、それ以上往く先がわからないゆえの手さぐり状態なのです。

  死に切れるには
 さて、みじめでカッコ悪い幽霊にならずに死に切れるには、仏法聴聞しかありません。
 まことの教えを聞かせていただいて、この私の往く先が明らかになるから、安んじて死んでいけるのではないでしょうか。
 無条件に私の一切を受けとってくださる国、それが「浄土」であり、その国に向かって、弘誓のちからで歩み通していくのが、死に切れる人生です。

 

 (機関紙「ともしび」平成26年3月号より)

 

 

 
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