2013年12月のともしび
常照我
「海霧」 撮影 谷口 良三氏
「♪かきねの、かきねの まがり角・・・・」という歌い出しで知られる「たき火」の歌は、昭和16年12月9日より10日まで、NHKラジオで放送されたのち、にわかに、放送禁止となる。太平洋戦争開戦の影響である。
落葉も貴重な資源であり風呂ぐらいは焚ける、何より火が敵機の目標になりやすい、というのが軍部の理由。実際のたき火
はもちろん、歌まで禁止してしまうのが、戦(・)時下(・・)らしい。
巽聖歌の作詞は、だが時代を超えて戦後、愛唱されてゆく。
寒風の中でひとときの暖をとる庶民のつつましい生が、実感
として迎えられたのであろう。
12月8日の開戦日は、奇しくも釈尊成道の日。今また戦争への「まがり角」を曲がろうとするかのような仏教(・・)国(・)日本は、釈尊の眼にどう映るのだろうか。
(機関紙「ともしび」平成25年12月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「お肉好き、脂肪困る」の巻
先日、とある広告で見かけたフレーズです。脂肪の吸収を抑える効能を謳ったお茶の売り文句ですが、「お肉は好きなだけ食べたい、でも脂肪がつくのは困る」と、何ともワガママな要求です。しかし、多くの人の心をくすぐる誘い文句であることは間違いありません。
本来、そんな都合の良いことはなく、飲むだけで痩せるような魔法のお茶は現実には無いはずですが、今の科学技術なら実現可能かも?という期待と相まって、そのような傲慢な欲求が商品化されるのでしょう。
テレビや雑誌、書籍において「ダイエット」や「健康」は定番のテーマです。多くの人が、自分の怠慢は棚に上げて、健康でいたい、痩せたい、という願望を手軽に叶える方法を求めているので、手を変え品を変え、効くのやら効かないのやら分からない新ネタが、どんどん出てくるわけですね。
ところで、「正信偈」 には「邪見?慢の悪衆生」というお言葉があります。「間違った考えと、思い上がりの心に満ちた私たち」ということですが、自分の欲望は叶えたい、でも不都合な結果は欲しくない、という間違った思い上がりは、日常の隅々に転がっているよなあと、冒頭の広告を見た時に思い起こされました。慢心とは、欲望に流され、大事なことに怠慢な姿なのでしょう。
さて、かく言う私も、大好きなアイスクリームやチョコレートは好きなように食べたい、でも太るのは困る、というわがままなで怠慢な自分と日々闘っている次第です。
(機関紙「ともしび」平成25年12月号より)
和讃に聞く
「高僧和讃」
恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
罪障を滅し度脱せし
(『佛光寺聖典』604頁 10首)
【意訳】
人間のもつ情念は断ち難く、日日の苦しみは尽きません。そうした中において念仏申す生活は、その苦しみから生ずる罪や障りが生きる力となるのです。
「終活」という言葉を耳にすることが多くなりました。
終活とは五年ほど前に、ある出版社が造った言葉で、当初は人生の終焉に向けての事前準備をいいましたが、現在では「死」と真向かい、自らの人生を見なおし、今を自分らしく生きる活動のことを言うようです。
最近では、自身の模擬葬儀体験にとどまらず、自らが棺の中に入る「入棺体験」も実施する葬祭業者も出てきました。
棺に入り、蓋が閉まる。
顔の部分だけの扉が開けられ、棺を囲む人たちが覗きこむ。
小さな窓から外を見たとき、人は何を思い、何を考えるのでしょうか。
視点の転換
日ごろ私たちは、生から死というように、生の立場に立って死を見ています。
口では、明日の命はわからないと言いながらも自分は、家族は、一年、五年、いや十年は大丈夫だと思っているものではないでしょうか。
ここから始まる
嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと…。
生きている限り悩みは尽きませんが、親鸞聖人は、その一切は私が生きる上で、何ひとつとして無駄なことはないとお教えくださいます。
一切の出来事が、私を押し出し、生きる力となる。
南無阿弥陀仏と念仏申す生活は「終活」ではなく、あえていうならば「始活」ということでありましょう。
「死」をいただき生きることにおいて「生」が光輝く。
燻って見えていた「今」という一瞬一瞬が、かけがえのないものとして輝きを取り戻す生活が始まるのです。
(機関紙「ともしび」平成25年12月号より)