2013年9月のともしび
常照我
「西方(ひがん)にむかう」 撮影 谷口 良三氏
高所恐怖症の人は、見ていて腰を抜かすかもしれない。
最大落差457mの北米グランド・キャニオンの頂上付近で34才の男性ワレンダさんが、命綱を着けず一本の平衡棒だけを手に、400mの長さの綱の上をいわゆる「綱渡り」をして渡りきった。所要時間は20分。
テレビで録画を観たが、現地は真に眼も眩む高さである。
達成の瞬間、待っていた奥さんと抱き合って喜びを共有していた。これを快挙と見るか、ばかばかしいことをする、ととるか、評価はさまざまだろう。
私には混迷する世相の中、一服の清涼剤に映ったが、もし墜ちたら?とも考えてしまった。
それは、墜ちたら死ぬ、命 懸けのショーに、ふと、堕ちても倒れても見捨てない「本願」を重ねて見ていたからだ。
(機関紙「ともしび」平成25年9月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
近所の子どもたちを集めて本堂でカレーライスを食べることに。
食事前、子どもたちに「いただきます」の意味を知ってもらおうとこんな話をしました。
「レストランで食事をしようとしているひと組の家族。注文した料理がそろって、小学生の子どもが『いただきます』と言ったときに、お父さんがこう言いました。『今日は、お金を払って食べているから言わなくていいんだよ』と」
私が「『いただきます』って言わなくていいのかなあ」と子どもたちに聞くと、ほとんどの子が「言わなくてはダメだ」と。
「何故かな」という問いに、「いただきますは絶対に言わんとアカンから」との声。日頃、親からそのように言われているのでしょう。
そこで私はこう続けました。「『いただきます』の上には『いのちを』という言葉が付きます。カレーの中のお肉だけでなく、お芋もにんじんも、そしてお米も、皆、いのちを生きています。そのいのちを食べることなしに、私たちは、遊んだり、学んだりだけでなく、動くことすら出来ません。すべてのいのちに感謝の気持ちをもって『いただきます』と言ってくださいね」と。
実はこの話をしながら、私自身、きまり悪い感じでいっぱいでした。「絶対に言わんとアカンから」と言った子ども、実は幼稚園年長のうちの息子だったのです。
子どもたちに「いただきます」の本当の意味を教えようと意気込んでいた私自身の足をすくわれた思いでした。
(機関紙「ともしび」平成25年9月号より)
和讃に聞く
正像末和讃
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
(『佛光寺聖典』643頁98首)
【意訳】
人としての小さな慈悲さえも持ち合わせていないこの身では、人々を救おうなどとは思うべきではないのでしょう。
阿弥陀如来の誓願の船がなかったならば、この迷いと苦しみに満ちた海をどうして渡ることができるでしょうか。
小慈小悲もなき身
朝起きて、ひとまずテレビをつける。そんな人も多いのではないでしょうか。
朝のニュース番組からは様々な事件や災害の情報が流れ続けます。子どもが犠牲になる、血の繋がった者同士が傷つけ合う、やり切れない事件。人間の無力さを思い知らされるような災害の現場、悲嘆に暮れる人々。
数々のニュースに、時には怒り、悲しみ、胸を痛める。しかし、「朝ごはんの用意できたよ」の声が聞こえた瞬間、いそいそとテーブルに着く私。朝ごはんを掻き込みながら、先ほど感じた胸の痛みは何処へやら、頭の中の痛ましい映像は消え去り、スケジュール帳の今日のページへと切り替わります。
毎朝繰り返されるこの姿。これこそまさしく、小慈小悲もなき身といわれるものなのでしょう。
理想と現実
争いのある世界と平和な世界ならどちらが良いですか?もしくは、いがみ合いと助け合い、私利私欲と無私無欲とでは…。ほとんどの人が後者を願い、理想とするのでしょう。しかし現実には、争い、いがみ合い、自分のことしか考えない。決してその願いどおりには生きることができない私たちがいます。
阿弥陀如来の誓われた四十八の誓願。その一番目には、私の国に地獄や餓鬼や畜生がもし有るならば、私は仏と成らない、と誓われています。願いを持ちながらも、現実には地獄・餓鬼・畜生として生きるしかない私たちのために、そこはかとなく深い悲しみをもって、すでに用意されていた誓いです。
その阿弥陀如来の大きな慈悲の心にふれた時、人としての小慈小悲もままならない私の身の事実が露わになるのです。
(機関紙「ともしび」平成25年9月号より)