2013年7月のともしび
常照我
「泥中の蓮(でいちゅうのはちす)」 撮影 谷口 良三氏
土・水・空気、土・水・空気と、心の中で呟いてみる。
人間を含む生きものにとっての、最低限の生きるための環境である。そして原発放射能は、生物以前にこれらを汚染し、除染さえままならぬ現状だ。
眼には決して見えないゆえに高をくくっていると、その私たちを遠巻きにしていつのまにか、生活圏を包囲してくるだろう。
気づいた時には、遅い。
にもかかわらずなおも、原発再稼動に向けての動きが絶えない。危険におびえて、豊かな生活を捨てるのかということらしい。また、早期に再稼動出来なければ料金値上げの声も。何かが違っていないか。
電力の有無に関し、いたずらに不足感を煽らないでほしい。
仏教はずっと「少欲知足」と説いてきている。
(機関紙「ともしび」平成25年7月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「懈慢界」の巻
極楽浄土を求めつつ、いつしか陥ってしまう世界に「懈慢界」というところがあるそうです。どういう世界かというと、衣食住全て満ち足りた快適な世界で、そこに至るともう腰を下ろし、満足してしまうのです。
経文には「億千万人に一人」が極楽浄土に往生する、とあります。つまりいい環境過ぎて、ほとんどの人は歩みを止め、その快適さに自己満足しまうのです。
先日、進学する子どもの引越しを手伝ってきました。大きな荷物は運送屋さんに依頼したので、細かな生活物資が中心だったのですが、問題はその量。生活の隅々まで考えられた物資は、食器、常備品、各種洗剤に至るまで山のような量です。男親では気づけない様々な準備、配慮がこの量になりました。要するに我が子に不自由な思いをさせないとの母親の願いなのです。それらのあらかたを配置し終えほぼ引越し完了しましたが、ふと「現代版懈慢界」の言葉が浮かびました。
多分にやっかみもありますが、自分の学生時代の物資に比べ、天 地の違いです。
まあ、物資のことはさておいて、「これで十分」と腰を下ろし、歩まなくなる世界。また、最初から結果が予想される世界。それも「懈慢界」だといわれます。浄土を求める思いがなくなり、怠けてしまう。もうこのあたりでいい。もしくはこれだけあればきっと大丈夫と思う。こういう落ち着き方を批判しているのです。
私たちの暮らしのあちこちに、この「懈慢界」はありそうですね。
(機関紙「ともしび」平成25年7月号より)
和讃に聞く
浄土和讃
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか
(『佛光寺聖典』601頁 113首)
【意訳】
南無阿弥陀仏を称えるものは、仏法のさまたげをなす他化天の大魔王でさえも、お釈迦様の前で、守護することを誓われるのです。
現世利益を説かないと思われがちな浄土真宗ですが、親鸞聖人は十五首の「現世利益和讃」を作られていて「浄土和讃」に収められています。そのうち「冥衆護持」といい、目に見えない神々などに守られる利益をあげられる数首があります。その一つがこの他化天の大魔王です。
他の欲境を自在に
他化天とは六道天上界、欲界の最高峰に位置する世界をいいます。「他化自在天」ともいい、他の諸天が作りあげている欲境(欲望の世界)を自由自在に受け用いることができるといいます。自分ひとりが思いつき、つくりあげる欲境には限りがありますが、他のものがつくった欲境もそのまま自分の世界として楽しむことができる。言わば「究極の欲望」の形ともいえるかもしれません。
情報化時代の欲望
現代社会では、情報機器やインターネットなどの発達で、私たちは世界中のおびただしい情報を即時に得ることができるようになりました。その欲望はすでにとどまることを知りませんが、科学技術の発展はさらに欲望を肥大化させます。
正に「他化天」の世界が現実化しようとしているのです。
その欲望に溺れて自分を見失わないでいることは困難かもしれません。しかし、欲望のみを追い求める生活はどこまでいっても満たされることはなく、後に空しさだけを増幅します。
念仏を称える生活の中で、そんな自分に気づかされ、欲望を転じていくことができれば、大魔王でさえも守護者となってくれるように、そのままで私たちに真に喜びの境涯が開かれていくと親鸞聖人は述べていただいているのです。
(機関紙「ともしび」平成25年7月号より)