2013年3月のともしび
常照我
帰郷目前の旅支度(猪苗代湖にて) 写真 谷口良三 氏
陰暦の三月名は〈弥生〉。
生あるものいよいよめざめる、とも読める。草木は芽吹き、花々は競うように咲き始める。
だが、春はすぐには来ない。
〈春一番〉など恒例の嵐が吹き荒れ、北国では何度も吹雪いた後、やっと春本番となる。
それは、母親の陣痛の苦しみにも似ている。そういえば生まれてくる赤ん坊もまた、生まれるには苦痛を伴うらしい。
赤ん坊がケタケタ笑って生まれてきたという話を聞かない。必ず泣いて生まれる。つまり、人間はまず泣いて生を享ける。
泣くほど苦しくても生まれてくるのは、それ以上のよろこびがあるからだと受けとめたい。
生の無上のよろこび、それは、この私に懸けられた本当の願いすなわち、仏の〈本願〉に遇うこと、それ以外にはない。
(機関紙「ともしび」平成25年3月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「涅槃図」の巻
お釈迦様が入滅された陰暦の二月十五日(現在では三月十五日に行われることも多い
ようです)に、お釈迦様の遺徳追慕と報恩のために。各地の寺院で行われる法要を涅
槃会といいます。
この時に掲げられるのが「涅槃図」と言われる絵軸で、八十歳のお釈迦様が、インドのクシナガラの沙羅双樹の下で息をひきとられる場面が描かれます。
周りには多くのお弟子さんや鳥獣、虫までもが嘆き悲しむ姿が描かれます。多くの涅槃図に共通するのが、雲に乗って降りてくるお釈迦様の母上の摩耶夫人や、悲しみのあまり倒れている、長年お釈迦様の側に仕えた阿難尊者、またお釈迦様に最後の食事を供養したチュンダなどで、それぞれの位置づけに意味があるとされます。
中でも、十大弟子の一人であるアドゥルダ尊者は、嘆き悲しむ人々の中で、お釈迦様が亡くなられてもその教えは永遠に生きるのだと、人々に伝えている姿で描かれます。
また、お釈迦様が亡くなられた時の、頭北面西右脇(頭を北に顔を西に向け右脇を下にした)のお姿は、涅槃の理想の姿と言われ、親鸞聖人が亡くなられた時も同様のお姿であったと「御伝文」にも表されています。
本山でも二月十五日に勤まる「涅槃会」においては、幅二メートル、長さ四メートルの涅槃図を、本堂左余間に奉掛するのが古くからの習慣となっています。
(機関紙「ともしび」平成25年3月号より)
和讃に聞く
正像末和讃
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
(『佛光寺聖典』六三二頁三五首)
【意訳】
阿弥陀仏の智慧が詰まった念仏をいただくことは、法蔵菩薩の時に誓われた本願のはたらきによることなのです。この信心の智慧がなかったならば、どうしてさとることができるでしょうか。
このご和讃を喜ばれたお婆さんがおられました。
もう数十年前のことですが、大学を卒業したばかりの私に「このご和讃は有難いんだ」と言われ、そういう人がおられること自体に驚いたことでした。お仕事は産婆さん。今なら助産師さんですが、いつも古風な着物姿で、「産婆さん」と言う方が似合うのです。聞法会は欠かさず、古いメモ帳にいつも感じたことを鉛筆書きされていました。
「法蔵願力のなせるなり、ここがいい。自分の力じゃない」と。
雪菩薩
ある冬の日、雪国にはよくあることですが、天候急変、雷鳴と共に、みるみる大粒の雪と強風に見舞われました。停電もあり道路は大渋滞し、運転者の誰もがイライラしだす頃、あのお婆さんの姿を目にしたのです。
黒いマントを着て、自転車を引く姿は痛々しいのに、顔は何とも晴ればれとしているのです。
渋滞の傍らを、一歩一歩進み、時折上気した顔を上げて休む。その姿は周囲を浄化し、合掌させるような何かがありました。
快適な車内にいながら、イライラばかりし、遅い車に心中で罵声を浴びせる。そんな我が姿が自然と恥じられたのです。
願力のなせるなり
「念仏はさせてもらうけど、念仏は自分のものじゃない。そこをもっと聞かせて貰いたい」そんな言葉もいただきました。
当時はハッとしただけでしたが、今にして思えば、出産の場面は生死の現場です。いくつもの生と死の場面に遭遇し、尚、生まれ出てくる力強いいのちに「法蔵願力のなせるなり」の味わいを頷かれたのでしょう。
あの晴ればれとしたお顔を数十年ぶりに思い出しました。
(機関紙「ともしび」平成25年3月号より)