真宗佛光寺派 本山佛光寺

2013年1月のともしび

御親教

門主 渋谷 惠照

 本日はようこそお参りくださいました。ただ今は、ご参詣の皆様方とともに「行譜正信偈」三首引を唱和いたしましたこと、大変有難く嬉しく思っています。
 この度、御正忌報恩講の教区割り団体参拝運動を展開することになり、お陰をもちまして大逮夜法要にかくも大勢の参詣者を見ることが出来ましたこと、誠に有難く、大いなる喜びとするところであります。
 さて、世の中に目を移しますと、福島第一原子力発電所の事故に象徴されますように、時代社会は政治や経済の力をもってしても解決してみようのない人間苦を生み出しています。人々は「何のために生まれてきたのか」、「何を拠り所にして生きていけばよいのか」と、苦悩の色を深めています。
 そうした火宅無常の世界にあって、智慧の光明を放って私たちを導いて下さる真の教え、それこそがお念仏のみ教えでありましょう。
 親鸞聖人は、『浄土和讃』に、
  十方微塵世界の
   念仏の衆生をみそなわし
   摂取してすてざれば
   阿弥陀となづけ
   たてまつる

と詠んでおられます。たとえどのような世界に暮らしていようとも、お念仏する者を必ず救い取り、決して捨てることのないおはたらきを、阿弥陀と申し上げるのですと、そのお徳を讃歎されました。そして、お念仏とともに智慧の光明に照らされた日常生活を送ることこそ肝要なのですと、自らの家庭生活を通して、私たちにお示しくださったのであります。
昏迷をますます深める世の中にあればこそ、親鸞聖人を宗祖といただく私たちは、阿弥陀仏を真の拠り処として、念仏成仏の歩みを進めて参りたいと存じます。
 本日はようこそお参りくださいました。
(平成二十四年 御正忌報恩講)

年頭のご挨拶

宗務総長 大谷 義博

新春にあたり謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
 宗祖親鸞聖人七五〇回大遠忌法要からすでに二回目の元日を迎えておりますが、その時の感激未だ覚めやらず、ずっと掲げてまいりました大遠忌の基本理念、
 南無阿弥陀仏は私のいのち
を指針とし、聞法のご縁をいただいて歩んでおります。
 しかしながら、過ぎしこの一年、世事の波に埋没し、その都度、私の思いを中心に右顧左眄して来たように思います。振り返れば足跡の消えている空過の日々であったと思わざるを得ません。
 昨年の御正忌報恩講において御門主様は「浄土和讃」の一首、
 十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなわし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

をお引きになり「何のために生まれてきたのか」「人々は何を拠り所として生きていけばよいのか」そうした課題に答えて下さる、お念仏のみ教えをよくよく聴聞されますようにと、ご和讃を通してお勧めくださいました。
 しかしながら、年々歳々本山においてさえも参拝者の減少してくる昨今であります。昨年度より一人でも多くの聴聞者を願い、七日間にわたる御正忌報恩講に全教区割団体参拝を企画し、本山参拝への積極的な運動を展開してまいりました。
 お陰様で、二十七日のお日中、大逮夜、二十八日の御満座法要は今までにない活気を取り戻し、三日間とも満堂に近い盛況ぶりとなりました。誠に有り難うございました。
 さて、昨年の特記すべきことの一つは医療新時代を開いたiPS細胞発見の山中伸弥教授がノーベル物理学賞授賞に輝やかれたことでしょう。
 「いのち」はどこから生まれてきたのか、科学者の長年の課題がついに山中教授を中心に細胞の再生が可能になったという朗報でありました。
 細胞を作り出し、遺伝子を組み換える時代に入ってきましたが、いのちまで人間が思い通りに支配する時代に向かっております。当然、生命倫理学会において国際法に照らして厳しい検討が加えられるようであります。
方や、釈尊のお説き下さった、いのちは分析ではなくあらゆるものに「悉有仏性」を観ておられます。
 つまり、生きとし生けるもの悉くに仏性ありと、説き明かされてあります。
 仏性は南無阿弥陀仏と告名された「いのち」のお名前であります。
 南無阿弥陀仏は、あらゆるものを輝かせずにはおかない根源の願いと教えられています。
 人間の思慮分別を超えている尊い「いのち」を果たして人間の手で作り出すことが可能なのでしょうか。
 今年も、いろいろな問題を共に共有し聞法のご縁になることを願って、ご挨拶といたします。

常照我

宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要 大師堂での法要 画 佐藤政治宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要 大師堂での法要 画 佐藤政治

 

  「初心忘るべからず」
 今日まで幾度となく聞いてきたことばであるが、経験を積めば積むほど初心から遠ざかり、物事に対する謙虚さ、真剣さが失われていくということはないだろうか。
 「仏法聴聞は、何度聞いても初事として聞け」と先師はいう。
 まだ若かった頃、同じ話を二度三度と聞けるものかと疑問思っていた時期があった。
 だが、同じとする話から問われているのは、外ならぬ「現在ただ今の私」である。
 昨日とちがう今日を生きる
 「私」が問いとなるとき、自我の耳で聞いていた仏法は新たな光を放つ。
 おめでとうの声に、おめでとうと応える新年。
 過去や未来にはない今日という日は、始まったばかりだ。

 

  (機関紙「ともしび」平成25年1月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「宗教観」の巻

 久々の同級会に参加しました。いつしか当時の「◯◯君」「◯◯ちゃん」と、呼び合っています。本当に久々のA君は私に向かって「◯◯君の宗教観を教えてくれ」と聞いてきました。A君は自動車関連の仕事をしています。
 同級会ですから、まるで衒いも気取りもなく飲んでいたのですが、「宗教観」となると、何をどう話していいやら途方に暮れながらも、思いつくままに何やら話しました。
 まあ中身というより、それを話す話し方などで、その人の宗教観は感じられるし、それを聞きたかったんだというような感想をいただきました。
 私はといえば、「言葉がないなあ」が正直な感想でした。
 通夜や法事といった場面を想定しての定型的な話はできても、生の問いに面食らった自分なのです。「ただ念仏のみ」の教えをいただきつつも、それを咀嚼した自分の言葉がないのです。
 他にも「せっかくの機会だから説法してくれ」の声も結構聞きました。全く冗談やからかいでもなさそうなのです。もう同級生も五十代半ば。様々な人生の場面、別離、邂逅などを味わい、社会の大きな変化に日々直面し、地域や職場での悩みをそれぞれに抱えているのです。
 「言葉」が出ない、とは「問い」を忘れて暮らしていたということです。日々の月参りを日常業務にしてしまい、世間話で過ごしていたのです。これで坊さんといえるのだろうか。たったの一言でしたが、大きな課題をいただいた同級会でした。

 (機関紙「ともしび」平成25年1月号より)

 
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