真宗佛光寺派 本山佛光寺

2012年12月のともしび

常照我

宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要 佛光寺伝統声明を聞く 画 佐藤政治宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要 佛光寺伝統声明を聞く 画 佐藤政治

 

 その字面から、年末の慌ただしさを感じさせる「師走」。
 それにしても一年は早い。
 ある時計メーカーが「あなたの一年を『せかせか』『たんたん』という言葉で表すとしたら、どんな言葉になりますか」というアンケートを実施したところ、いちばん多かった回答は「ばたばた」であった。
 自らの足下を見直すこともなく、ただ忙しく走り回ったこの一年。
 往々にして、楽しい時間は短く、苦しい時間は長いものだが、共にかけがえのない時間であることに変わりはない。
 どんな一年を生きてきたのかと見直すと同時に、どんな一年を生きようとしているのか。
 「ばたばた」と過ごした時間を通して、今日あるいのちを感じたい。

 

  (機関紙「ともしび」平成24年12月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「三年ひと昔?」の巻

 「十年ひと昔」という言葉がありますが、今の社会ではもう「十年大昔・三年ひと昔」くらいなのではないでしょうか。

 先日、三年間使ってきた携帯電話のボタンが利かなくなり、あわててショップに駆け込みました。修理代があまりにかさむようなら機種変更してしまうか、いやいっそスマートフォンにするべきか…とあれこれ思案しながらお店に着き、修理受付の順番待ちの間、店内に展示されている機種を見比べて考えることにしました。すると、スマートフォン全盛のこの時代、いわゆる従来の「ケータイ」タイプの電話は、もうたった2~3機種しかありませんでした。今の携帯電話を購入した三年前には、スマートフォンといえば一部のマニアが先駆的に使っているだけで、売り場はたくさんの種類の「ケータイ」であふれていました。それが今やスマートフォン一色に。三年で世の中ガラリと変わってしまったなあとしみじみ思いました。

 私たち人間の作り出すものは、このようにたった三年で激しく移り変わってしまう、はかないものです。

 一方、お釈迦さまが伝えてくださった「全ての物事は常に変化しており、変わらないものなどない」という諸行無常の教えは、二千五百年も変わらずに受け継がれてきています。「三年ひと昔」の高速スピードについていかなくては、と焦りがちな今の時代だからこそ、なおさら仏さまの教えの頼もしさが身にしみるなあと感じた次第です。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年12月号より)

 

和讃に聞く

 

正像末和讃(悲歎述懐讃)

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし

(『佛光寺聖典』六四三頁 九四首)


 

【意訳】

 浄土真宗の教えに帰した私でしたが、私の中にまことの心はなく、嘘いつわりに満ちた身には、きよらかな心もかけらもありませんでした。


 そのことが、浄土真宗に帰して、改めてわかったのです。
「おまえ、あれだけお寺で聴聞してるのに、もっとましな人間になれんのか、って主人と口論した時、言われたんですよ」

と、長く聴聞して下さっている奥さんが言われました。眼差しは真剣でしたが、表情には笑みがこぼれていました。

 

  「ため」には聞かない

 そこで私は、「ご主人、思わず本音を仰言ってしまったんでしょうね」とお答えしましたらその方、「ですから私も、あなたの都合のいい妻になるために聞いてきたんじゃない。そう言い返しちゃいました」
 ちょっとやばいけどお見事。
 そうです。聴聞は、ためにするんじゃないのでしょう。人にほめられるような立派な人になるためとか。
 それは倫理道徳の世界です。 教えを聞いて立派な人になれたら、教えはそこで要らなくなるのです。なれないからこそ聞法の歩みが生まれるのです。
 「浄土真宗に帰すれども」なれないのですから。

 

  「帰すれども」とは

 親鸞聖人はなぜ、こう仰言ったのでしょう。一宗の祖師と呼ばれる方ならば、信のよろこびを高らかに謳い上げるべきではないか、と不思議に思った若き日がありました。

 けれどそれでは、私たちは今のように聖人を身近に感じることはなかったかもしれません。距離を感じたかもしれません。 聖人は、一切の混じりものを排して、阿弥陀様とご自身とが向き合われたのです。虚仮不実のわが身とは、人と比べてではなく、阿弥陀様の光明に照らされて見えてきた私でした。

 「帰すれども」は実は、「 帰したからこそ」本当に見えてきたご自身であったのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年12月号より)

 

一語一縁

お花は
  枯れるから
    いいですね。

 

 テレビから流れる「♪花は咲く」のメロディに慣れた頃のことです。ふと聞こえてきた言葉にハッとさせられました。

 「お花は枯れるからいいですね」…声の主はお花の先生です。

「人間も同じ。だからこそ一瞬の生気あるお花を活けると、生の香りが溢れるんです」

 常日頃、花に接し、生徒さんと共に活け、最後には傷み、枯れていく花を見つめている人の言葉は、感傷を離れたさっぱりとした明るさがありました。

 

  生老病死

 お釈迦様は「生」の内容は即ち「老・病・死」である、と明瞭に見極められました。

 枯れない花があれば造花だし、生きているからこそ枯れる。当たり前のことなのに、ハッとしたのは「枯れない花があればいいのに…」という、身勝手な思いが私にあったからでした。

 お寺の仏花は浄土を表すお荘厳、常にきれいに活けてあるべきなのです。しかし大きな花瓶の大量の花は、すぐに傷み、枯れていきます。

 でも、傷んだ花を除き、汚れた花瓶を洗い、新しい花を活けると、不思議と清々しい気持ちになります。確かに「枯れるからこそ」いいのです。造花では何も気づけない気がするのです。

 

  長寿とは? ある布教使は「長寿とは、自分がいかに支えられて生きてきたかが分かること」と言われました。「長命と長寿は違う」とも。

 すぐに病む私たちだからこそ、お互いに相手を気遣ったり、大事にし合えるのでしょう。やがて枯れることが本当に分かれば、この一瞬の生を慈しみ、紅葉し、次の世代に願いを託し、そしてちゃんと枯れていけるのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年12月号より)

 

 

 

 
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