真宗佛光寺派 本山佛光寺

2012年10月のともしび

常照我

宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要 記念演奏会(音楽法要) 画 佐藤政治宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要 記念演奏会(音楽法要) 画 佐藤政治

 

 長袖の服が、恋しい季節となった。
 先人は、四季がめぐりくる中に「衣がえ」という言葉で、季節の移りかわりを肌で感じ取ってきた。
 これとは別に、教えを聞く上で、「衣がえ」を詠んだ歌がある。

 迷いの着物をぬいでもね
 悟りの着物をきたんでは
         相田みつを

 聞くというかぎりは、聞いたことにおいて、一枚でも多く悟りの着物を身につけたい、ひとつでもつかみたいという思いも、また迷いなのであろう。
 寒さを感じれば、いつもより一枚多く着る。
 秋風の中に、私が身につける必要のない確かな教えを肌に感じたい。

 

  (機関紙「ともしび」平成24年10月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「オハライ」の巻

 先日、毎月のお参りに、あるお宅へ伺った時のことです。
 いつものようにお内仏の前に座って、手を合わせようとしたところ、私の後ろに座っておられた、おばあさんから声をかけられました。
「今日は、何かオハライするものありますか?」
「えっ、お祓い・・ですか?」
「はい、オハライするもの・・・」
 今までしたことあったかな・・・、それとも、私ではなく父か、祖父か・・・、
やり方も分からんし・・・、頭の中をいろんな疑問が駆け巡ります。十秒ほど逡巡していたでしょうか。
 するとまた、おばあさんが遠慮がちに背後から、
「あの・・・婦人会の会費とか。」
一瞬、考えました・・・なるほど!お祓いではなく、お払いだったのです。
「今日は、何もありませんよ。」
 平静をよそおって答えましたが、内心はホッとするやら、可笑しいやら。
 もちろん、浄土真宗のお寺では、お祓いなどは行いません。
 お祓いによって、自分に都合の悪い障りを取り除きたい。お祓いに頼る。そんな私の都合や弱さをあきらかにしてくれるのが、お念仏の教えなのです。
 親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり。」と言われます。碍とは障りのこと。決して無くなることのない障り。それを我が身に引き受けていく。その時、障りは、すでに障りでは無くなっているのかも知れません。
 それにしても、「オハライ」のひとことで、父や祖父までも疑ってしまう私。後から心の中で「ごめんなさい」と謝ったことでした。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年10月号より)

 

和讃に聞く

 

浄土和讃

南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪回のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ
(『佛光寺聖典』六〇〇頁 一〇七首)


 

【意訳】

 南無阿弥陀仏をとなえれば、この世の利益は量り知れません。
 これまでの迷いの輪回の罪業は消え、輪廻を離れて浄土に生まれる身となったなら、限りある寿命の苦しみや早逝の悲しみに遭うことがなくなるのです。

 真宗は自分の欲を満たすお願いを叶えてくれるような現世利益は説きません。真宗の現世利益とはそのようなものとひと味違う豊かな味わいがあるのです。

 

入院中のひとこと
 あるご老僧が入院されました。胃癌の手術で胃の四分の三を摘出したのです。退院後初めての法座の席では、その痩せた姿に皆衝撃を受けました。しかしそこで老僧は病院で非常に味わい深いことがあったと話し始めた
のです。
 入院中に受けた一本の電話、あるご門徒の方からでした。

「調子はいかがですか。」
「一時は危なかったですが、何とか手術も成功し、今寝ております。」という普通の会話の後、凄い言葉が出てきたのです。
「そうですか。でも何ですな、どっち向いてもよろしいですな。」

行き詰まりのない人生観
 それは、このまま退院できれば、また様々な法座の縁に遇い、仏さまのお取りつぎをして頂ける。有難いことです。だが万一悪化して死の縁を迎えたとしても、それは浄土に生まれ仏となるご縁であった。これもまた尊いことです。生きるも死ぬも、どっち向いてもよろしいですな…ということなのでした。どんな生き様でも尊いと言える人生がそこにありました。その言葉を聞き深く味わった老僧も凄いですが、言い放った方も凄い。お念仏の味わいはどんな人にでもこのような人生の豊かさを与えて下さるのでしょう。
 定業中夭がのぞかれる、ということは、早逝しないことではなく、どんな短い人生を送ったとしても、浄土への道往きを精一杯全うした、有難い命であったといただけることなのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年10月号より)

 

一語一縁

「人間はそんなにも生きられへんのや」

 おばあちゃん、200歳まで生きてなあー。
 おばあちゃん子だった私が、幼稚園から帰る途中に投げかけた言葉に、祖母は優しい口調で「分かった」と。
 次の日、念を押して言いました。「おばあちゃん、絶対に200歳まで生きてなあ」。これに対して祖母は「人間はそんなにも生きられへんのや」と。
 幼稚園児の私にとってはかなりのショックで、明日にでも祖母が亡くなるかのような寂しさを感じたことでした。
 今、その言葉の意味を推し量ってみると、私の「200歳」というのはずっとずっと生きていて欲しいということ。それに対して祖母は、人間のいのちには限りがあるのだということを伝えたかったのでしょう。

 

いのちを終えて

 それから二十五年が過ぎたある日の夕刻、祖母は病院のベッドに横たわっていました。チューブから送り込まれた酸素を鼻から吸い、口からそれを吐く。
 体力的にもかなりしんどそうな表情でしたが、そんな中でもひと呼吸ひと呼吸を力強く精一杯生きていました。
 そして「ふ~っ」と、大きな息を吐いたのを最後に、再び吸うことはありませんでした。
 二十九歳の私にとって、人間がいのちを終えていく瞬間を目の当たりにした初めての経験でした。

 

生き続けて

  生き続けて
 祖母は行年八十四歳。やはり「200歳」にはおよびませんでしたが、与えられたいのちを生き抜き、永遠ではない限りあるいのちの尊さを身をもって教えてくれました。
 このことは、今もなお私のこころで生き続けています。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年10月号より)

 

 
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