真宗佛光寺派 本山佛光寺

2012年9月のともしび

常照我

宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要  キャラクターショー  画 佐藤政治宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要  キャラクターショー  画 佐藤政治

 

 夏が過ぎ、他の季節にはないもの悲しさを見せる秋は、実り、食欲、収穫、読書、芸術、スポーツとあらゆる形容を許される好季でもある。
 この時期を待っていたかのように咲く彼岸花は、球根の眠りから覚めて茎を延ばし、秋分を前に一斉に開花する。
 青空を突き抜くように咲く炎にも似たその姿とは裏腹に、毒を持つせいか、あまり好まれる花ではない。
 その一方、曼珠沙華とも呼ばれる彼岸花は、経典の上で天上界に咲く華とされる。
 天上界とは、人間の欲が満たされた何ひとつとして不自由のない世界。
 古く曼珠沙華を彼岸花と、身近に言い習わしてきた先人たちは、自身の限りなき欲の中に、毒を見たことであろう。

 

  (機関紙「ともしび」平成24年9月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「カレー味」の巻

 スナック菓子から麺類にいたるまで、カレー味というのは実に食欲をそそるものです。
 先日の昼食は即席ラーメン。袋から取り出し、麺をラーメン鉢に移し替え、お湯をかけるだけで「すぐ美味しい、すごく美味しい」あの即席麺です。
 お参りの合間を縫ってひとりで食べていると、買い物から帰ってきた妻が、たまたまこの即席麺のカレー味を買ってきたとのこと。
 さっそく袋から取り出し、お湯をかけ、食べてはみたのですが、カレー味にしてはスパイシーさに欠けているような…。この即席麺は「子ども向け」という勝手な先入観を持っていたので、辛さを抑えているのだろうと。
 それでも納得できず、利き酒ならぬ「利き即席麺」をして、両者を食べ比べました。結果、カレー味の方は、確かに薄味なものの、食べたあとにカレー独特のスパイシーな香りが残る、ということで妻と意見が一致しました。
 子ども向けのラーメンだから、と一件落着しかけたとき、麺が入っていた袋から出てきたのは「カレーの粉末スープ」・・・。これを入れることで初めてカレー味のラーメンになるのでした。
 どんな味であっても、思い込み次第でカレー味に変えてしまう。人間の味覚とはいい加減なものです。いや、味覚というよりも、人間自身がいい加減なのでしょう。
 何ごとでも一度こうだと思い込むと、なかなかそこから離れることができません。人間の思い込みの恐ろしさをつくづく感じた「事件」でした。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年9月号より)

 

和讃に聞く

 

浄土和讃

善知識にあうことも
 おしうることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなおかたし

(『佛光寺聖典』五九二頁 六九首)


 

【意訳】

 真実の教えを伝えてくださる善き師に出遇うことも、教えを伝えることも難しいことです。
しっかりと教えを受けて、よく聞くことも難しければ、信じることはなおさら難しいことなのです。

 

 娘が通う小学校の授業参観でのことです。
 男の子が発表しました。それを聞き終えた先生が「みなさん、どうですか?」、クラス全員に意見を求めます。たくさんの手が上がりました。

 

グー・チョキ・パー
 子どもたちはみな積極的です。でも、グー・チョキ・パー、それに一本指。それぞれ手の形が違っています・・・?
 よく見ると黒板の横に貼り紙が、前の発表者と同じ意見の人はパー、違う意見の人はチョキ、分からない、質問したい人はグー、意見を付け足したい人は一本指を上げることになっているようです。
 これはハンドサインといって、まずは他人の意見をきちんと聞く姿勢を養うための授業方法だそうです。
 先生はまんべんなく手を上げている子をあてていきます。
 しかし、パーを上げたのに微妙に違う意見、チョキを上げたのに同じような意見・・・。なかなか上手くはいきません。
 他人の話をきちんと聞くというのは難しいものなのです。

仏さまの喚び声
 ご法座においては、「わかりやすい」、「わかりにくい」、「なるほど!」、「何かちがう?」・・・。
 心の中でグー・チョキ・パーの手を上げて、仏さまの教えを、自分の都合という物差しではかっている私。聞いているようで、本当は聞けてはいない。
 仏さまの教えは、そんな私の都合で出来上がった物差しをも打ち砕き、我が身の奥底へと響いてくる、仏さまからの喚び声です。
 そこには本来、私の都合を差し挟む余地など微塵もありません。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年9月号より)

 

一語一縁

「達観して…
そこに満足して居座るのは…こいつら見ちゃったら
もうできません。」
  『銀の匙 Silver Spoon』(荒川弘、少年サンデーコミックス)より。

 農業高校の飼育実習にて、食用肉となる運命の元に生まれてくる子豚たちを目の前にして、彼らは食べ物なんだと割り切ってしまうことは自分にはできない、と語る主人公の思い。

 進学校出身の主人公・八軒勇吾が、農業高校の酪農科での寮生活と飼育実習の中で、動物たちの生命に正面から向き合っていく物語です。

 

子豚の「豚丼」

 豚舎実習で世話をすることになった子豚に「豚丼」という名前を付けて可愛がっていた八軒。子豚は夏休みの間にぐんぐん成長し、あっという間に食肉として出荷される日がやって来ます。家畜の生命についてひと夏のあいだ悶々とした末、彼は「肉になった豚丼を買います!」と宣言。そして買い取った「豚丼」の肉を手作業でベーコンに加工したり、豚丼に調理して仲間たちと食したり。お肉はおいしいし、やめられない。でもやっぱり気持ちの整理はつきません。
  「おいしく頂くのが供養になる」と言い、肉となった「豚丼」を葛藤なく受け入れる友人たち。対して八軒は、「生き物を食うってこんなもんだよね」と割り切って楽になることを良しとせず、次に生まれてきた子豚たちにもまた名前を付けて世話を始め、生命について考え続けることを選びます。

 

向き合い続けること

 生命という模範解答のない問題について、とことん考え抜くことはしんどいことです。八軒は「わかったフリしてやり過ごすことだってできるのに」と言われながらも、「なのにあいつは真面目に受け止めて、周りにも真面目に返してる」と、考えることを投げ出さないことで、周囲の仲間たちにも考え続けるきっかけを提供しています。
 私たち一人一人の人生にも模範解答はありませんが、自分にとことん向き合うように促す働きかけは、常に私たちの周りにあるのではないでしょうか。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年8月号より)

 

 
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