真宗佛光寺派 本山佛光寺

2012年7月のともしび

常照我

宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要  大師堂にて  画 佐藤政治宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要 大師堂にて 画 佐藤政治

 

 漢字には「りっしんべん」、「こざとへん」というように部首がある。
 「問」は「もんがまえ」。
 では「聞」は…。
 意外にも「もんがまえ」ではなく、「みみへん」であることを知った。
 聞くということは、耳を問いなおすということから始まるということか…。
 ある師より「仏法は自分の耳で聞くのではなく、仏さまからたまわった耳で聞くのです」と教えていただいた。
 仏さまからたまわる耳…それは自我の耳で、私に都合よく聞いている耳をも突き破ってくる。
 賢く、偉くなる教えが蔓延する世にあって、ほんとうの人間に帰る教え。
 まずは、耳を問いなおすことから始めたい。

 

  (機関紙「ともしび」平成24年7月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「遠くてねえ」の巻

 「○月○日聞法会がありますが、いかがですか」。ご門徒のあるお婆ちゃんに声を掛け、聞法会にお誘いしてみると、
「遠くてねえ」
と即答されました。
 そうか、車で送ってくれる人もなく、やはり遠いのか。そう思いつつ、何気なくテーブル上の一枚の紙を見てしまいました。「同級会のご案内 ○○温泉」。
 開催日は偶然、聞法会と同日です。まさか同市内のうちは遠くて、県外の○○温泉は近いというのか?心は騒ぎましたが、そこはプロ。顔はにこやかなまま会話を続けました。まあこんなことはよくある話です。自分だって近所に用事があっても、遠方の飲み会には即応したりします。遠近は自分の都合。実際の距離ではないのです。
 『観経』には「阿弥陀仏、此を去ること遠からず」と説かれています。
 この世はいやだ。苦悩のないお浄土が欲しいと泣きわめく主人公に、お釈迦様が語られるお言葉です。「お浄土は遠い」としか考えていない点では、現代の我々も同じです。西方浄土なんて私とは無縁。もし見てきた人がいるのなら、信じてもいいけど。そんな古い話なんか関係ない。まあこんなところでしょう。特に「関係ない」意識が一番の「遠さ」なのです。
 でも、聞法会のお誘いだとしても、ご門徒が多く集まってくれればいい、講師に対して面目が立つ、経営的にもたすかる、という坊さん意識こそ、教えから最も「遠い」のかもしれません。
 いろんなことを感じさせてくれた「遠くてねえ」でした。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年7月号より)

 

和讃に聞く

 

高僧和讃(源信讃)

煩悩にまなこさえられて
 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわがみをてらすなり

(『佛光寺聖典』六二〇頁 九五首)


 

【意訳】

 私をおさめとってくださる、大いなる仏さまの光に照らされながら、煩悩に眼がおおわれてその光を感じることができない私たちですが、仏さまの大悲は、やむことなく常に照らしていてくださいます。

滋賀県にある、重症心身障害児施設「びわこ学園医療福祉センター」の前園長で小児科医の高谷清さんが、三十五年におよぶ療育実践をまとめられた「重い障害を生きるということ」という本が注目されています。
 施設を初めて訪れた人が言う「生きているのがかわいそう」という見方に、本当にそうなのだろうか?と、疑問を提起されています。
 びわこ学園では、百人近くの人が「寝たきり」状態で、社会的には「何もできない」と思われている人たち。しかし、大事なのは、その人たちが生きていて嬉しい、気持ちがいいと感じる状態になれるということだと高谷さんは言われます。

 

 光を見つける
 びわこ学園の前身である、近江学園をつくった故・糸賀一雄さんは「この子らに世の光をではなく、この子らを世の光に」と言いました。「光とは人間の心の中にある光。障害がある子はたくさんの光をもっています。彼らが光ることで、職員も自分の中の光を見つけて輝くんです」と、高谷さんは語っています。
 ともすれば、自分のものさしや社会の常識だけで物事を判断し、「善し悪し」や「役に立つ、立たない」と決めつけがちな私たちです。そういう見方しかできない者を、糸賀さんは「光を見るはたらきがにぶってしまった」と言われます。

 さえられた眼
 仏さまの光は私たちすべてに降りそそいでいます。しかし、自分中心にしか見られない曇った眼では、それに気がつくことができません。 重い障害を持った人たちの存在そのものが、私たちにそのことを教えてくれているのかもしれません。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年7月号より)

 

一語一縁

おにいちゃん、どうした?
大丈夫か?

平成七年一月十七日、阪神・淡路大震災の当日、スーパーマーケットにて私にかけられた言葉。

阪神・淡路大震災の当日、ひどい混乱の中、近所のスーパーが営業しているという情報を聞き、店へと向かいました。
 店は暗がりの中、無言で床に散乱した商品をカゴに詰め、レジに並ぶ人であふれていました。 妙に静かな店内は、外を走る緊急車両のサイレンだけが響いています。私も我先にと商品をカゴに詰め始めましたが、強い恐怖感と不安感から、気づけば、目には涙があふれていました。
 そんな私に初老の男性が声をかけてくれたのです。「おにいちゃん、どうした?大丈夫か?」
 男性の顔も苦痛で歪んでいるように見えました。その言葉は何気ないものでしたが、何かそっと肩に手を置かれたような安心感がありました。

 

キティちゃんの口
 そして、昨年発生した東日本大震災の直後。子どもたちへと届けられた支援物資の中に、キティちゃんのぬいぐるみがあるのをニュースで見かけました。
 キティちゃんの顔には不思議なことに口がありません。そのため見る人の気持ちによって表情が変わるのだそうです。
 嬉しい時は嬉しい顔で「ヨカッタネ」、悲しい時は悲しい顔で「ツライネ」と、キティちゃんは寄り添ってくれるのです。
 送られた方は、子どもたちへの思いを、無口なキティちゃんに託されたのかもしれません。
 『無量寿経』には「和顔愛語先意承問」〈顔色を和らげて言葉優しく、相手の気持ちを汲んで求めに先だって答え〉とあります。言葉は必ず口にした人の思いとセットで相手に届きます。
 何気ない言葉、そこに添えられた思いに癒され、励まされることで、人は苦しみを抱えながらでも、歩みを進めることが出来るのかもしれません。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年7月号より)

 

 
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