真宗佛光寺派 本山佛光寺

2012年5月のともしび

常照我

大遠忌

 

仏さまの教えを聞くかぎりは、何かひとつでも掴んでやろう。
 そう躍起になっていた若い頃、師より「君がつかめる程度の仏法など、所詮知れている」と教えられたことがある。
 あれもこれもと、掴んでは分かったつもりになっている「私」がそこにいた。
 今や分からぬことがあれば、携帯片手に、あらゆる情報が即座に手に入る。
 液晶画面に縛られた眼を休め、ふと見上げた紺碧の空には、風向きに逆らうことなく活き活きと泳ぐ鯉。
 仏さまの教えを聞くということは、仏さまの教えをも自分の都合に合わせようとする「私」を聞くということだ。
 百の教科書より、颯颯の風の中に、私が掴む必要のないほどに確かな教えを感じたい。

 

  (機関紙「ともしび」平成24年5月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「ツイッター」の巻

 ツイッターというインターネットのサービスをご存知でしょうか。今していること・感じたことなどを、「つぶやき」という百四十字以内の短い文章にして投稿し、共有する仕組みです。知り合いや著名人を購読リストに登録すると、「今どこそこにいる」「今日は何をした」などの近況を知ることができます。面白いなと思う人を登録すると、その人たちの目に止まった出来事やニュース、それに対する意見や感想を読むことができます。もちろん、自分の近況や思いを発信することもできます。
 様々な人のつぶやきに接する中で自分の価値観を揺さぶられたり、異なる観点からの発言に触れて自分の考えの偏りや拙さを自覚したりします。時に意外な気付きをもらえることが、ツイッターの魅力の一つです。私とは違う環境で違う生き方をしている人の、別の観点からのつぶやきが、思いがけず自分というものを浮き彫りにしてくれることがあります。
 私たちがお念仏のいわれを「聞く」ことは、自分がどのような人間であり、どのような問題を持って生きているのか、照らし出されていくということです。今やインターネットを利用すれば交流範囲は遠く他県・他国に及び、世界が大きく広がったように思われますが、それはどこまでも自分が中心の世界なのです。仏さまの視点からの問いかけでなくては、自己中心を超えた世界があるということに気づくことはありません。だからこそ仏さまは、「南無阿弥陀仏」という六字のお名号となって私たちに常に寄り添い、問いかけてくださっているのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年5月号より)

 

和讃に聞く

 

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし
(浄土和讃『佛光寺聖典』 五九七頁 九二首)

 

【意訳】

 阿弥陀仏は私たちすべてを慈しんでくださいます。それは、あたかも親がひとり子を慈しむかのように。
 私たち一人ひとりにはたらきかけてくださるのが、阿弥陀仏の平等心なのです。
 「もうすぐご飯やから、半分だけにしておきなさい」。夕食前におまんじゅうを食べたがる幼稚園児の息子に、母親からのひと言。
 一応ふたつに分けるものの、明らかに大きい方を選ぶ息子。残り半分を食べるのが母親なら文句も出ませんが、相手が小学生の姉となるとそうもいきません。どっちが大きいだの、小さいだのと・・・。
 たとえ真っ二つに分けることができても、相手の方が大きいのではないか、自分は損してはいないか、と思うことでしょう。おまんじゅうを食べることができる喜びよりも、相手との比較にとらわれてしまっているのです。

 

 私の平等感
 では、何をもって平等というのでしょうか。
 「あの人がたくさん持っているので私も」「あの人が良い思いをしてるので私も」。他人と比べて私も同じように、というのが私たちのもつ平等感です。
 しかし、たとえ同じようになったとしても、決して満足などできません。まさに、おまんじゅうの「はんぶんこ」と同じ感覚なのです。

 仏の平等心
 平等心とは、私から見てではなく、阿弥陀さまの視点から見ての平等です。つまり私たちすべてに、しかも一人ひとりにはたらきかけてくださっているという意味において平等なのです。
 他人と比べて一喜一憂する私に対して「あなたはあなたとして尊い」「あなたはあなたとして生きなさい」と。私の存在自体を慈しんでくださっているのです。つまり「違っていて尊い」を阿弥陀さまの平等心というのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成24年5月号より)

 
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