2011年11月のともしび
常照我
白書院より中庭と大師堂大屋根を望む 画 佐藤政治
十一月、私たちが思いを馳せる紅葉の季節となりました。
しかし夏の青葉が黄、紅、褐色へと色づくには、一定の寒さに加えて、昼夜の大きな気温差という条件が必要です
。
そんな厳しい気候を乗り越えたことをも感じさせない美しさに、人々は魅せられ、やがて散りゆく紅葉のなかに、今を生きるいのちの輝きを見つけているのでしょう。
一方、私たちは今の自分に輝きを見いだせているでしょうか。若かりし昔に捉われたり、老いゆく未来を愁いだり。紅葉に共感しながらも、自身の今からは目を背けている私。
今しかありません。今この時この時を、教えのなかで生かされ続けていくことによってのみ、輝いているいのちに気づくことが出来るのです。。
(機関紙「ともしび」平成23年11月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
衣の巻
「今日はお衣を着て、お話させて頂きます」この言葉で講師は話し始められました。
殊更何をおっしゃるのかな、と思っていたら、講師はお寺の出身ではなく、お衣を身に着ける時はやはり緊張するとのこと。何かハッとさせられました。
お釈迦様当時のお話です。人々が餓死するほどのある飢饉の年、仏が朝から昼まで乞食しても一食も得られず、鉢を空にしているのを見た一人の比丘が、「今こそ釈尊に供養しよう」と三衣を売却し、一椀の米を仏に供養します。仏は「比丘の三衣は極めて重い意味がある」として、これを受け取らず、むしろ「汝の父母に供養せよ」と勧めます。
この「三衣」とは、僧団で個人の所有を許された大衣、七条衣、五条衣で、もとは捨てられていたぼろ布を洗って作られたので、糞掃衣とも呼ばれました。大衣は正装衣で街に托鉢に出たり、王宮に招かれたりするときに着る衣。七枚や五枚の布片を縫い合わせた日常着が中衣の七条衣、五条衣です。これらは鮮やかな色ではなく、濁った色(カサーヤ)に定められていたので、やがて袈裟と呼ばれました。現在でも袈裟をよく見ると、細かく布が使われていますが、こういう伝統があるからです。
衣や袈裟を身に着けるということの緊張感を、久しく忘れ果てていたことを冒頭の講師のお言葉で気づかせて頂きました。忘れたどころか、衣や袈裟の生地やデザインばかり目移りする私の姿を、また教えられました。
(機関紙「ともしび」平成23年11月号より)
聖典の言葉
正信偈
三蔵流支
浄教を授けしかば
仙経を焚焼して
楽邦に帰したまいき
【意訳】
菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)が浄土の経典を授けたので、曇鸞大師は、
所持していた神仙術の奥義書を焼き棄てて、浄土の教えに帰依された。
曇鸞大師は、病弱だったようで、仏教研究のためには、まず長命であらねばと、神仙術を学び、ついに不老長生の奥義書まで伝授されました。
ところが、北インドから来た菩提流支三蔵に出遇い、「不老長生を望むのではなく、生死を超えた境地を確認するのが仏法である」と浄土の教えを授けられたのです。そのとき、曇鸞大師は、神仙術の奥義書をすべて焼き棄てて、浄土教に帰依したのでした。
すがる願い
先日夜遅く、下宿している大学生の息子が、救急車で運ばれたという連絡が入りました。びっくりしてへなへなとなりながら、終電に飛び乗りました。
どうか大丈夫でありますように。どうか命だけは助けて下さい・・・そう願わないではいられませんでした。
もしも、どんな怪我でも病気でも治る魔法があれば、その時の私は、即座に飛びついたことでしょう。『正信偈』のこの一節は、まったく浮かんでもきませんでした。
潔さと厳しさ
せっかく伝授された不老長生の奥義書を、きっぱりと焼き棄てて浄土教に帰依した曇鸞大師。その行為の恐ろしいまでの潔さと厳しさは、「死なない」ということよりも大切な教えがあることを、私にも知らせて下さっていたのに。
息子は結局、尿路結石と診断され、一週間の激痛の後、カランと音をたてて完治しました。やっと出てきた、憎き小さな石。
この石が、『正信偈』も忘れ魔法にさえすがりたいと思ってしまう愚かな私、そして愚かであることさえ気付かない私を、浮き彫りにしてくれたのでした。
(機関紙「ともしび」平成23年11月号より)