2011年10月のともしび
常照我
十月は実りの秋。
植物は、土や水や日光のはたらきがあって初めて実を結びます。そのことを知っているかのように、彼らは黙々と、いのちを育んでいます。
一方、人間はというと、自分ひとりの力で生きているかのような顔をして暮らしています。実りをいただくことで初めて成り立っているいのちであることをも忘れて。
そんな事実に気づかせようとする仏さま。仏さまのはたらきは、もらすことなく私たち一人ひとりの上で実を結んでいるのです。
そのはたらきを身をもって感じていくには、仏法に耳を傾けるよりほかありません。
まもなく報恩講が始まります。まさに、お法りの秋でもあるのです。
(機関紙「ともしび」平成23年10月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「ついで参り」の巻
「せっかくお墓参りに来たんやもん。親戚のおばさんのお墓もお参りして帰ろうや」
「あかん、あかん、ついで参りはあかんよ…」
お墓参りをしたお母さんと娘さんの会話が、月参りの折に話題になりました。
「なんで、ついで参りがあかんの」
「それはね、自分とこの先祖のお墓を参りついでに、よその先祖のお墓を参ったら、自分とこにも、よそのとこにも失礼でしょ。ですよね、住職!」
確かに「ついでに来たよ」などと言われると、あまり気持ちのいいものではありませんが、縁のあるお墓にお参りすることは大切なことです。
「ついで参り」が悪いのではなく、「ついで…」という言い方がよくないのでしょう。
「ついで参り」ではなく「せっかく参り」と言えばどうでしょう。
たまたま、目的地の近隣にある知り合いの家を訪ねるにしても「近くまで来たので、ついでに来たよ」ではなく「せっかく近くまで来たので…」と言われる方がうれしいですね。
行為は同じでも、関わり方でずいぶんと変わるものです。
「で、お墓参りの帰りにどこかに行きましたか?」
「はい、お決まりのレストランで、美味しいものを食べて帰りました」
予約をしていたレストランは「ついで…」ではないようです。
(機関紙「ともしび」平成23年10月号より)
聖典の言葉
唯信鈔文意
浄土をねがう人は、
あらわにかしこきすがた、
善人のかたちをふるまわざれ、
精進なるすがたをしめすことなかれとなり。
そのゆえは、
内懐虚仮なればなりと。
(佛光寺真宗聖典 五八一頁)
【意訳】
浄土をねがう人は、外側に、
賢者・善人・精進努力している
などのすがた・かたちを表わし
てはなりません。
内側は反対だからです。
読むたび単純化
意訳を、思い切って短かくしてみました。
この御文のおこころをいただくには、より単純化した方がよいと思ったからです。
読ませていただくたび、新たに納得し、新たな内面の虚仮ぶり、つまりはうそ・いつわり・まやかしに満ちた姿が見せられてくるのはしかし、この原文の多角度的で丁寧な表現にあります。
けれども、新たに読むたびに私の心の中に生まれてくる解釈は、上記のように味も素っ気もないかたちで単純化されてくるという事実も、逆にどうすることもできません。
御文の意図は、浄土を願わせる、そのことにあります。
従ってまず、「浄土をねがう人は」と説かれます。願うにはこの自分の虚仮の姿を知らなければ、真に願うこころは生まれないということでしょう。
見えつづける虚仮
願えば願うほど、浄土からは遠いその姿があきらかになり、高い頭が下がるのです。
私のような者の話でも、「ホントにいいお話だったわ」と言ってくれた奥さんがいました。
「おそれ入ります」と答えたらすぐ「東京の長男の嫁に聞かせたいから、同じ話をテープに吹き込んでほしい」と言われるのです。「あの女も少しは根性が直るでしょうから」と。
ーお断りしました。
「貴女はもう聞かなくていいんですか」という思いと、一瞬評価されたつもりで嬉しがった自分に腹が立ったからです。
仏法さえも利用して、人を操ろうとしたり、仏法で人の上に立とうとするおたがいの、内懐虚仮が見えてきたがゆえに。
(機関紙「ともしび」平成23年10月号より)