2011年8月のともしび
常照我
八月となり、夏まっただ中。例年ならクーラーの効いた部屋でひと涼み、なのでしょうが、今年は少々事情が違います。
原発事故の影響で節電、節電と叫ばれています。では節電にはどんな意味があるのでしょう。
テレビ、携帯電話そしてゲーム機。人間は快適さと便利さを求めて、電気を消費し続けてきました。ボタンひとつで快適な生活へ。それは家族を個々の部屋へと引き離すスイッチでもあったのです。
確かに昔は快適ではなかったでしょうが、そこには密な家族の繋がりがあったはずです。
今、電気は暑い部屋を涼しくしますが、人間関係までをも冷やしてはいないでしょうか。
節電、節電の声は、そんな人間と文明とのかかわりを考えさせる呼びかけでもあるのです。
(機関紙「ともしび」平成23年8月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
ともだちの巻
東日本大震災後、ケーブルテレビなどで海外ドラマを見ていると、冒頭にドラマの主人公たちが勢ぞろいして「WE ARE TOMODACHI」(私たちはともだちです)と発言する特別コーナーが、よく見られました。これは日本の同盟国でもあるアメリカの「トモダチ作戦」をマスコミの場面でも踏襲しているものなのでしょう。
もちろんそれ以外にも、米軍を始めとして物心両面にわたる援助が行われたことも記憶に新しいところです。
日本語が英語の文章の中で発音される、やや不思議な感覚も味わいながら、そのひたむきな善意には、もちろん感謝すべきでしょう。実際の被災地でも、日本人以上の働きをしてもらっていると聞きます。
ただ一方で、原発に関して言うと、元々アメリカの戦略の一環として日本に導入された経過もあると、一部マスコミなどの報道もあり、真の友達関係とは、なかなか難しいものです。
ちなみに仏教では、「親友」という言葉がよく出てきて、親鸞聖人のご和讃にも引用されます。サンスクリット語の「ミトラ」の訳で、元々は「友」の意味ですが、仏道をきわめる上で、自分を見抜き、教え導いてくれるすぐれた師のことをさすようになったといいます。
真の「ともだち」とは、単なる仲良しではなく、平等な立場で互いを高めあうものであると、改めて思わされます。
(機関紙「ともしび」平成23年8月号より)
聖典の言葉
浄土和讃
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり
【意訳】
阿弥陀さまは十劫というはるか古に仏になられました。
そして今も私たちのいのちを輝かせ、喜びを共にするのです。
在りし日の 母の勤行の
正信偈
わが耳底に 一生ひびかむ
吉野秀雄
小学生の頃、夏休みになるとお参りに行かされました。
「○○のおばあちゃんが待ってくれているから、行ってきなさい。家、わかるな?」
大体朝十時。そろそろプールにいこうかなと思う時間。
自転車で友だちに会わないようにわき道を猛スピード。挨拶もそこそこに、汗びっしょりで阿弥陀さんの前に座り、正信偈をお勤めしていると、後ろでおばあちゃんが団扇であおいでくれます。扇風機は燈明が消えるからダメ。今みたいにクーラーはあるはずもなし。
おばあちゃんの団扇の、私の衣にあたる「さっさっさっ」という音が実に心地よかったのです。そしてお勤めの後のカルピスのおいしかったこと。
やはりわき道猛ダッシュで帰り、自分も団扇であおいでみるのですが、何か違っていました。
涼しさや
弥陀成仏の このかたは
小林一茶
つい最近久しぶりに後ろから「さっさっさっ」の音が。びっくりしました。自分も暑いはずなのに、お勤めの間ずっとあおいでいただきました。申し訳なさで背中を違う汗が流れ、振り返ると汗ひとつかいていないおばあちゃんが座っていました。
弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまえり。それはまたあるがままにして尊きいのちを生ききった人間の歩みをも表します。他者なるいのちとつながることで、自分のいのちに出会い直していきます。
そして私たちは念仏とともに時を超え、私を生み出してくれたいのちと出会い、いま共に生きているのです。
(機関紙「ともしび」平成23年8月号より)