2011年4月のともしび
常照我
四月八日は花まつり。誕生仏に甘茶をかけるとき、子どもたちがもっとも興味を持つのは、その独特のポーズです。
右手を天、左手を地に指さしたお釈迦さまのお姿は、どんな境遇であっても、あなた自身のことを大切に思ってほしいという願いを表しています。
人より優っていれば自分のことを誇らしく思えても、劣っていると情けなく思う私。
しかし自分のことを投げ出したくなっても、そんな私をも見放さないのが仏さまなのです。
誕生仏に甘茶をかけるのは、お釈迦さまがお生まれになったとき、天から甘露の雨が降り注いだことに由来します。
私のうえにも、仏さまからの願いがいつも降り注いでいるのです。あなたはいつでもかけがえのないあなたなのだ、と。
(機関紙「ともしび」平成23年4月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
恩徳讃の巻
♪にょ~らいだいひの
おんどくは~
ご法話のあと、この歌を唱和された経験のある方は、たくさんいらっしゃることと思います。
私の生まれ育った寺も、毎月ご法話の会が催され、最後には恩徳讃が唱和されていました。私の役目は、小学生の頃から、恩徳讃の伴奏でした。
歌われる御歌の意味はわかりませんでしたが、最後のこの部分はぞっとしました。
♪ほ~ねをくだきても しゃ~ すべし~
この御歌のあと、みなさん一斉に「なまんだぶ~なまんだぶ~」とお念仏されるので、私も弾き終わるや否や、ピアノの椅子から転げ落ちるように正座して、手を合わせて小さな声で「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、ありがとうございます」と称えていたものでした。
「なんまんだぶつ」の後には必ず「ありがとうございます」とつけるようにと、小さい頃から我が家では決まっていました。
でも、「骨を砕きても」、ありがとうございますって、どういうことなんだろ…。
ずっと後年、この恩徳讃のいわれを知りました。
それは親鸞聖人の最晩年の著作『正像末和讃』の最後の一首でした。善き師に遇い、如来の大悲に救われた喜びを、深い感動をこめて詠い挙げられた賛歌だったのです。この壮絶な言葉は、仏祖への謝念の、重さと深さを物語っています。
今、恩徳讃を歌う時、優しかった両親の、私への深い願いを、有難く感じています。
(機関紙「ともしび」平成23年4月号より)
聖典の言葉
教行信証
無碍の光明は
無明の闇を破する
恵日なり
【意訳】
なにものにも障げられない仏さまの光(はたらき)は、人間の知識分別では到底知ることのできない闇の部分をあきらかにしてくださるのです。
節分の時期を迎えると、いつも近くのお寿司屋さんで「恵方巻」を買われていたAさんが亡くなったのは、昨年の暮れのこと。
現在家長である息子さんから「そんなの真宗に関係ない」と言われても、毎年、節分の声を聞くと、買って帰った恵方巻。
当然のことながら、今年は食卓にその姿が見られません。
関係ない?
四十九日をお勤めを終え、お茶をいただいていると、息子さんがこう切り出されました。「恵方巻は、真宗に関係ないと、もっともらしいことを言ってきましたが、家族の安泰、健康を願ってくれていた父の思いを踏みにじってきたのではないか…」と。
いま、深きご縁の中に、お念仏の教えをいただいておりながら「真宗に関係ない」というあり方が、人の温もりを見えなくすることがあります。
息子さんは続けます。「私は、温かくも悲しい父の願いが聞こえず、買ってきてくれた恵方巻を一度も口にしたことがなかった…」と。
教えに出遇う縁
上記にある聖典の言葉は、何でも知っている、何でも分かっている、自分は間違っていないとする人間の尺度を根底から問い返し、人間のもつ闇(自己愛)が突き破られると、一切が教えに出遇っていくことのご縁となることを指し示して下さっています。
私が「真宗に関係ない」と切り離しても、真宗の教えは、どこまでも今日の「私」をつかんで放しません。
今日ある「私」を思うとき、一方だけが恵方ではないことを教えられます。
(機関紙「ともしび」平成23年4月号より)