真宗佛光寺派 本山佛光寺

2011年1月のともしび

御親教

門主 澁谷 惠照

 本日は御正忌報恩講に、かくも大勢の皆様方にご参詣いただき、誠に有難く嬉しく思っております。この度は、門主として初めてお迎え致します御正忌報恩講となりましたこと、感無量の思い一入でございます。

 去る九月一日をもちまして佛光寺第三十二代門主に就任致しまして、早三ヵ月が過ぎようとしています。そのなかで佛光寺の歴史と伝統を背負う責務の大きさを日毎に痛感致しております。その心境を、

  み仏の教え伝ふる
   身となりて
   尊き衣まとふ今日かな

との歌に託しまして、私自身を見つめ直す誡めとしつつ、門末の愛山護法への篤い思いに後押しをされまして、お念仏の大道に歩みを進めさせていただいているところであります。

 御正忌報恩講前日の十一月二十日には、伝灯奉告法要を勤修させていただき、阿弥陀如来さまのご尊前にご奉告致しました。この上は、五十年に一度の勝縁であります明年の佛光寺草創八〇〇年記念法要並びに宗祖親鸞聖人七五〇回大遠忌法要を宗門一丸となって厳修してまいりたいと存じます。

 さて、今日の世相を見ます時、尊いはずの親子や家族のつながりは年々乾き切ったものになり、恐ろしい事件が相次いでおこり、大きな社会問題になっています。このような時にこそ、親鸞聖人がご自身のご生涯を通してお示し下さいましたお念仏のお心を、世に広く顕彰していく必要があると存じます。

 その意味でも大遠忌法要は、まことの御法を弘める大切な機縁であると思っております。 ご開山親鸞聖人は、お浄土のお徳を『浄土和讃』に、

 一一のはなのなかよりは
 三十六百千億の
 光明てらしてほがらかに
 いたらぬところはさらになし

と詠んでおられます。お浄土に咲く一つひとつの花からは、無数の光明が放たれ、み仏の智慧の光は今現に隈なく私たちを照らしていてくださる、とおっしゃっています。そのみ光に照らされれば、どのような境遇にあろうとも、生かされて生きている喜びが湧き上がり、充実した人生が恵まれます。

 混迷を深める世の中にあればこそ、私たちは常にみ仏の光の中にあることを喜び、人と人との絆を大切にお念仏につつまれた歩みを進めていくことが肝要かと思われます。

 大遠忌法要まで余すところ半年となりました。ご参詣の皆様にはお体おいといの上、またとない勝縁にお遇い下さることを念じております。本日はようこそお参り下さいました。

(平成二十二年御正忌報恩講)

年頭のご挨拶

宗務総長 大谷 義博

 新年に当たり宗祖親鸞聖人七五〇回大遠忌、並びに佛光寺草創八百年のご縁を頂き千載一遇と、かみしめ謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。

 まず、二年数ヶ月に亘り皆様方に大変なご心配をおかけ致しましたが、ようやく昨年九月一日、待たれていた第三十二代ご門主に、恵照様がご着任いただきましたことを皆様と共にお慶こび申し上げたいと思います。

 早速、去る十一月二十日「伝灯奉告法要」を営みましたが、ご門主様から時が時だけに極力、質素にしてほしいとのご要望をお受けして、要職者の方々に絞ってご参加いただき、控え目な奉告法要をお勤めさせていただきました。

 引き続き、第七百四十九回目の御正忌報恩講に移り久々の御親修報恩講厳修となりました。御親教の中で

 一一のはなのなかよりは
 三十六百千億の
 光明てらしてほがらかに
 いたらぬところはさらになし

の「浄土和讃」をお引きになり混迷深まる世の中において人と人との絆を大切に、お念仏に包まれた歩みをお勧すめ下さいました。

 昨年、御正忌報恩講中に報じられていたNHKの「クローズアップ現代」で生き生きと生きてますかのサブタイトルを付し、課長職の問題を取り上げていましたが、上からも下からもプレッレシャーのかかる中間職の悩みが特集されておりました。

 グローバル化の中で経済不況、社会機構が大きく変化し人生の依りどころが見えなくなっている現代に伝統的なモノサシでは通用しない現実を踏まえて、精神的不安定を余儀なくされる企業の現場そのものが映し出されていました。

 今を生きている私たちの板ばさみ人生をクローズアップしているように思われました。  いつのまにか管理社会の虜になってしまい精彩を失ってしまいやすい現状のことであります。

 お引きなったご和讃に戻りますと、大地から生まれ出ずるいのちは、光明に照らされて、赤は赤、黄色は黄に輝くべく、生きとし生けるものにはたらく力、本願力のことでありましょう。ここに、ほがらかに、とありますのは、輝くすがたをいうのでしょう。しかしながら下からも上からもつぶされてしまいそうな、生き方にならざるを得ない時代、こじんまりと縮まり陰湿性だけが残ってしまうなら一一の花の根っこは根腐れしてしまうのでしょう。こうした現状に身を置き、いのちのなかに願われている本願のいわれを聞き開いていくことが宗祖親鸞聖人の大遠忌をお迎えする意味であります。

 今年もよろしくお願いいたします。

常照我

「親鸞聖人ー関東にて」

親鸞聖人 関東にて 親鸞聖人は鳥辺野延仁寺で荼毘にふされた。

 聖人の妻恵信尼は、遠く越後の地より娘覚信尼に伝えた。

 「殿(聖人)の往生は、法然上人のもとで本願念仏に出遇った時に定まっていました」

 聖人と恵信尼は、互いを観音菩薩と尊び、ともに一人の人間として無碍の一道を歩んだ。

 その歩みは、遡れば釈尊の歩まれた古道に通じ、時を下れば佛光寺800年の歴史とともに私たちの暮らす今につながる。

 親鸞聖人750回大遠忌厳修の今年、「南無阿弥陀仏」の喚び声は、今ここでこの身を生きているのは紛れもないあなたといういのちなのだと教える。

 そして問う。

 あなたは「南無阿弥陀仏は私のいのち」と言いきれる今を生きているのかと。

 

  (機関紙「ともしび」平成23年1月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「スポーツクラブ」の巻

 忘年会、新年会のシーズン到来。食べ過ぎ、飲み過ぎでお腹まわりの脂肪が気になっている方も多いことでしょう。こんな時、スポーツクラブでひと汗流して・・・。でもなかなか長続きしないものですね。

 スポーツクラブには会員の種類がいくつかあって、営業時間内ならいつでも利用できる「通常会員」や、休日だけ、平日だけ、夜だけの「時間制限会員」等々。

 私も以前、あるスポーツクラブの「通常会員」でした。しかし「今日は疲れたから」「今週は忙しいから」と自分勝手な理由をつけてはほとんど利用せず、まったくの幽霊会員状態でした。

 そこで、料金が割安という理由で、平日の午後二時から六時まで利用可能な「時間制限会員」へと変更したのでした。しかしその途端、「明日は休日で利用できないから今日行っておこう」「夜は利用できないから早いうちに行っておこう」というように気持ちが切り変わり、積極的に利用するようになったのでした。

 「いつでも」行けるという気持ちが、いつまで経っても行けなくしていたのでした。

 「忙しいから」「疲れたから」止めておこうというのは仏法聴聞も同じことでしょう。

 「いつでも」いや「いつかは」仏法を聞くことができるのだという根性が、いつまで経っても聴聞できない原因となっているのです。「今しか」できないのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成23年1月号より)

 
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