2010年12月のともしび
常照我
「親鸞聖人ー関東にて」
弘長二年(一二六二年)の秋も深まったころ、親鸞聖人は身体の不調により床につかれた。
『御伝文』によると、病の床について後は、世間の事は口にせず、ただ仏恩の深き事をのべ、専ら念仏の絶えることがなかったという。
同年十一月二十八日、聖人は京都善法院にて入滅された。九十歳であった。
その生涯は平安から鎌倉へという動乱の時代の中にあった。多くのものが時代に翻弄され道を見失う中、聖人は師法然上人の説かれた「ただ念仏すべし」との教えに出遇い、無碍の一道を歩まれた。
それは聖人の身に証された本願成就の姿であった。
今時代を超えて、私たちに喚びかけるのは、聖人を聖人たらしめた本願そのものである。
(機関紙「ともしび」平成22年12月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
梵鐘の巻
除夜の鐘で親しまれているお寺の釣り鐘。正しくは「梵鐘」といいます。
仏事の時を告げる役割をしているのですが、この梵鐘、太平洋戦争戦時下、供出を余儀なくさせられたお寺も多く、私の寺の鐘も戦後、再鋳造された二代目です。
思えば、仏さまの什物を供出させるような戦争に勝てる筈もなく、案の定、負けてしまいました。
むろん、勝てるならやってもいい、ということにはなりませんが。
梵鐘には、仏徳讃嘆と自省懺悔という二つの効用があるようです。
昔、農作業の途中であってもお寺の法座の時を告げる梵鐘が聞こえてくると、「はいはい、いま参ります。参りますとも」といって、鍬や鋤を放り出しては、よろこんで駆けつけていたお母さんがいたそうです。
このいのちを、いのちたらしめているはたらきを聞くためには、仕事も後まわしという受けとめがあったのでしょう。
また、かつての連合赤軍あさま山荘事件の首謀者の女性Nは、いかなる取り調べにもかたくなに自白を拒んでいました。
しかし、夕方に鳴り出す深く澄んだ山寺の鐘の音を毎日聞くうち、恐怖に震えだし、とうとう自白したといいます。
大晦日には、お寺で梵鐘を撞くことがことができます。
けれどもお互い、鐘に身勝手な願いを懸けたりする前に、仏さまの世界からの法を聞けとの喚びかけと受けとめ、音の響きを謙虚に聞き味わいたいものです。
(機関紙「ともしび」平成22年12月号より)
聖典の言葉
仏説阿弥陀経
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。
名づけて極楽と曰う
【意訳】
これより西方はるかに十万億もの限りない諸仏の国を過ぎ続けた彼方に、世界があり、極楽と名づけられています。
「そこへ行けば、どんな夢も叶うというよ」そう歌い出す曲がありました。でも、「そこ」は、余りに遠い遙かな世界だと。
極東の日本人の理想の国は、遙か西の彼方のようですね。
日常生活の現場では拝めないけれど、お内仏の前なら、お寺に行けば、或いは西の彼方の「そこ」に行けば、きっと素直に拝めるはず。そんな思いがどこかにあります。
しかし、この経文をよく読むと、別に「遠い」とは書いてありません。先入観で遙か彼方の西方浄土と思いますが、「十万億の仏土を過ぎて、世界あり」つまり多くの仏土を過ぎ続けるのです。言い換えれば、極楽への道は「十万億の諸仏たちに遇い続けていく道のり」なのです。
極楽への道
「自分が生まれた時、泣いて喜んでくれた人がいた。そのことだけで自分は生きていける」ある青年の言葉です。祖母が亡くなった時、彼は別段悲しまず、平然としていました。でも中陰の頃、ある親戚が「このお婆ちゃんはあなたが生まれた時、本当
に喜び、可愛がって育ててくれた」ことを教えてくれました。
彼の父親は既に亡くなっていて、父の死は悲しかったけれど、お婆ちゃんの死は当たり前、くらいに感じていた自分に愕然とし、深く恥じ入ったそうです。
自分が無条件に受け容れられ、だからこそ生きてこれた。自分が生きてこれたのは、両親を始め、お婆ちゃんのお陰。この一点で彼は立ち上がったのです。
諸仏は、意外に身近に居られるものです。むしろ私が踏んでいる辺りに居られるものです。普段は忘れ去っている諸仏に遇い続ける道のりが、極楽への道ではないでしょうか。
(平成22年12月「ともしび」より)