2010年3月のともしび
常照我
「親鸞聖人ー越後にて」
●五年間にわたった流罪が終わり、親鸞聖人は越後より京都に帰った。
佛光寺の寺伝によると、聖人は建暦二年(一二一二)京都に帰り、山科に草庵を建立し興隆正法寺と号したとある。のちの佛光寺である。
六角堂参籠から吉水へ、そして法然上人の下で真実の教えと出遇った地京都は、法然上人のおられた頃とは一変して、もはや親鸞聖人の思う場所ではなかったのかもしれない。
聖人は草庵を後の人に託してまもなく関東に旅立たれた。
思い出深い土地を離れて一人の仏弟子として、そして念仏者として生きていく。それは法然上人の「群れることなく、各々がその住むところで念仏申して生きなさい」との心にかなう歩みであった。
(機関紙「ともしび」平成22年3月号 「常照我」より)
聖典の言葉
三帰依文
「先師の口伝の真信に異なることを歎き後学相続の疑惑あることを思うに」
【意訳】 お念仏の教えを伝えて下さった親鸞聖人のおっしゃることと、異なることをいうものがいるのは本当に悲しいことであり、それによって教えを受け継いでいくものに疑いや惑いが起こってくると思われる。
■ある日、お寺の本堂に小学生を集めて「絵の伝言ゲーム」をして遊びました。
ルールは簡単。まず一枚の絵をひとりの子だけに10秒間見てもらい、絵を伏せた後、その絵を思い出して画用紙に描いてもらいます。次の子は前の子が描いた絵を10秒間見た後に、同じように思い出して描いていく。といった具合です。
最初の子には、私が描いたタヌキの絵を見てもらいました。次から次へと、人を経るごとに絵の様相が変わっていき、最後は「・・・ん?」というような変わり果てた絵になりました。そのあと、皆で絵を順々に見ていくと面白くて大笑いしたのでした。
でも誰ひとりとして、笑わせてやろうと考えていたわけではありません。子ども達は大まじめに、前の子の描いた絵を思いだし、自分が見たままを画用紙に描いていたのです。
伝えるとは
「教え」についても同じことがいえるでしょう。意図して教えを曲げてやろうという思いがなくとも、聞き違えや取り違えによって、本来の教えから、かけ離れたものになることがあります。時には自分の都合の良いように解釈してしまうことも。
宗祖親鸞聖人七五〇回大遠忌法要を一年後にひかえた今。聖人から先徳方を介して脈々と受け継がれてきたお念仏の教えを「歪めることなく」次の代、その次の代へと伝えていくことが、私たちに課せられた役目でもあるのです。
それには、今この私が、自らのはからいを挟まずに何度も何度も教えを聞いて確かめていくよりほかありません。教えを伝えていくということは聴聞につきるのです。
(平成22年3月「ともしび」より)