2010年1月のともしび
仏教あれこれ
「蜘蛛の糸」の巻
● 私たちは、自力では到底仏さまの世界には行けません。
けれども、仏さまは逆に、地獄にでも救いにおいでになれる筈です。そのことを、芥川の小説『蜘蛛の糸』に思います。
死後、地獄に堕ちた大泥棒の?陀多ですが、彼は生前たったひとつだけよいことをしました。
それは、小さな蜘蛛を踏み殺そうとして、ふと、これも小さいながら命あるもの、可愛そうだと思って助けてやった、というのです。
そのたったひとつの善行が、なぜ蜘蛛のいのちを助けることだったのかが、少々ご都合主義。
地獄に堕ちた?陀多をごらんになって、その善行ひとつで救おうと、蜘蛛の糸を極楽から地獄に下ろすお釈迦さまですが、?陀多が助けたのが蛙だったらどうするのでしょう?
糸は下せないはずです。
次に、しめた!とばかり糸をのぼってゆく?陀多が、下から罪人たちがぞろぞろつづいてのぼってくるのを見て、この糸はおれのものだ、下りろ!と叫んだとたん、糸は切れ元の地獄へ真っ逆さま。
しかしそのとき、お釈迦さまは悲しい顔をして、極楽の蓮の池のほとりからただ去っていくだけです。
二度と、救おうとはしません。
これでは、一発試験に落ちたも同じ。?陀多はより深い絶望の地獄に沈んでしまいます。
心から救おうとするのなら、糸を垂らすなどケチな試みをせず、進んで地獄にまで降りてくるのが仏さまでは?ーーそう思われてならないのですが。
(機関紙「ともしび」平成22年1月号より)