2025年8月のともしび
常照我
イラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さん
(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。
八月下旬、近畿地方では町内のお地蔵様をおまつりする地蔵盆という行事が行われる。
しかし近年、町内から子どもの数は減り、集まるのは高齢者ばかり。さらにコロナ禍や酷暑が追い打ちをかけ、地蔵盆を廃止するところが増えている。
地蔵盆にかぎらず、法事やお寺の法要なども縮小されている。世の中の暮らしが、集団より個人を優先するようになったためだろう。ようするに面倒だからやめてしまったのだ。
スタジオジブリの宮崎駿氏がインタビューの中で「世の中の大事なことは、たいてい面倒くさいんだよ」と言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
人生は面倒くさいの連続だが、面倒をすべて省いた人生に、はたして彩りはあるのだろうか。静かに手を合わせ、面倒を受け入れるゆとりを持ちたいものだ。
(機関紙「ともしび」令和7年8月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
娑婆の縁つきて、
ちからなくしておわるときに、
かの土へはまいるべきなり。
『歎異抄』より(『佛光寺聖典』七九六頁)
【意訳】
この世でのご縁が尽きて、命が終わろうという時、阿弥陀さまのお導きにより、お浄土へまいらせていただくのです。
「死の体験旅行」
先日、あるお寺で、人生を終える過程を擬似体験するワークショップに参加してきました。
参加者はまず、二十枚のカードに各自の「大切な人」「大切な物」「大切な思い出」「大切な夢・目標」を書き出します。
そして進行役が語る物語が始まると、参加者の「私」は病にかかり、徐々に心身が弱っていき、カードを一枚ずつ手放していきます。病が進むにつれ大切なものを次々と失い、やがて最期を迎える、という設定です。
物語に没入している間、手放さねばならぬ辛さが突き刺さります。それだけに現実に戻ると、自分が実はたくさんの大切なものに囲まれていることに、自然と感謝の念がふくらみます。
また、このワークショップの要の一つが、最後に残したカードが何で、どういう想いでそれを残したのかを振り返ること。思いもよらぬカードが最後に残る参加者も多いとか。
手放しても手放されない
私の最後のカードは「大切な人」の一枚でした。仏教書・聖典のカードは、病が進んだら読めなくなるだろうと既に手放しており、お念仏にまつわるカードは残っていませんでした。でもワークショップを終えてから、お念仏なしで命を終えたことが不安になってきたのです。死を迎える時、私は何を拠りどころにしているのだろうか……と。
その時、ふと『歎異抄』の一節が思い浮かびました。私が一切を手放すことになった時、そんな私をおさめ取ってくださるのが阿弥陀さまなのですよ、と。
私がお念仏を手放したとて、阿弥陀さまは私を手放されはしないのだと感じられ、自然と「なまんだぶ」と口に出ていました。
(機関紙「ともしび」令和7年8月号より)
仏教あれこれ
「言葉いるか?」の巻
子どもとイルカショーを見ました。イルカプールの前で写真を撮っていると、イルカがカメラ目線で見てくるのです。子どもがスマホのカメラでとった写真をガラス越しにイルカに見せると、なんとイルカはそれをじいっと見てくるのです。
賢い。わかっているんだろうか。少なくとも、顔と顔とをあわせてのコミュニケーションができているのです。そんなやりとりを見て、イルカはどんなことを考えているのだろうと興味をもちました。
イルカたちは仲間同士で高度なコミュニケーションをとっているといいますが、人間のように言葉で伝えたり考えたりするわけではありません。
言葉を話す動物であるヒトは、言葉で考えることに慣れすぎて、もう言葉以外で考えることができません。忘れてしまっていますが、赤ちゃんの時は私たちも言葉以外で考えていたのですよね。
ところで阿弥陀さまは言葉で考える私たちヒトに、お念仏という言葉による救いの道を届けられました。けれどお経には浄土の木々の華から仏さまが出て十方にはたらくとありますから、木々が説法するように、仏さまの世界には言葉を超えた教化がたくさんあるのでしょう。
きっとイルカの世界にも、言葉を超えた阿弥陀さまのはたらきがあるのだろうな。もしかしたら言葉を超えた世界を体感しているイルカたちの方が、仏さまの世界と近いのかも。
そんな想いを馳せながら、ショーを楽しんだひとときでした。
(機関紙「ともしび」令和7年8月号より)