よくある質問
11. はじめて「お盆」を迎えるのですが、どのようなお飾りをすればいいのですか?
お盆というと一般に精霊棚を作りお膳を用意し、迎え火や送り火を焚いたりするようですが、真宗ではそのような行為は一切いたしません。
お飾りといいましても、特別なことはなく、菓子・果物などをお供えし、前卓には打敷を掛ければよろしいでしょう。
ところで、精霊棚とはご先祖の、いわゆる「霊」が帰って来る場所であり、迎え火や送り火はその「霊」が迷わずにここに帰るようにという道案内のあかりです。
Q10で「出棺で茶碗を割る」ということについて書きましたが、帰ってくるなと茶碗を割り、帰ってこいと精霊棚を作り、そのうえ道案内の迎え火を焚く。何とも矛盾した行為であります。
先祖を大事にする行為は決して悪いことではありません。しかし、生きている者のその時々の都合によって、先祖を敬ったり悪霊としたりする行為は、良いこととはいえません。
習俗化した仏事の中には、往々にして仏法とかけ離れたものが多くあります。
聞法することを通して、お盆・お彼岸・年回法要等々を本来の仏事としたいものです。
12. 「お仏飯」はなぜお供えするのですか?
お仏飯は、毎日炊き立てのご飯を盛槽で形を整え、仏器に盛ってお供えします。
朝のおつとめの前にお供えし、お昼前にお下げする習わしになっていますが、おつとめが終った後ただちにお下げし、あたたかいお仏飯をいただくこともまた有難いことです。
最近では、朝にご飯を炊かず夜に炊かれる家庭が増えてきましたが、その生活事情から朝ではなく夜にお供えするのも致し方ないことでしょう。
大切なことは、お仏飯は亡くなった人に召し上がっていただくためではなく、仏徳讃嘆のためにお供えするということです。
私たちは日々、様々な物を目にし、たくさんの量り知れないいのちを頂き生きています。
私のいのちと言うておるけれど、実は無数のいのちが形をかえて今の私を形成して下さっているのではないでしょうか。
私たちが主食とするご飯を仏さまにお供えすることによって、自らの上に与えられたいのちを精一杯生かさせていただくということを、お念仏と共に再確認させていただくことこそ、お仏飯の意義であります。
13. 「リン(鈴)」は何のために打つのですか?
テレビドラマなどでのお仏壇に向かうシーンや、お仏飯をお供えした時など、必ずといっていいほどリンを打ってから合掌礼拝をしています。確かに、見ていて美しく清らかな姿に思えます。
しかし、真宗においては、お内仏の前に座ったときは必ずリンを打つという作法はありません。いつの間にか、他宗の作法が当然のことになってしまったようです。
リンに限らず、いわゆる鳴り物(梵鐘・喚鐘・太鼓・馨等々)は『時』を知らせると言う意味と、阿弥陀如来をはじめ諸仏・諸菩薩の入堂を請うという意味があります。
例えば、お寺によって時間はまちまちでしょうが、梵鐘をつきます。昔は、たんぼに出ていても、寺の鐘で時刻を知ったようです。
またリンは、いわば「これからおつとめが始まります。阿弥陀様はもちろん、仏となった先祖をはじめ諸仏の入堂です」という合図であり、それまでざわついていた法事の席も、姿勢が正され厳粛なムードになります。
ですから勤行以外では、リンを打つ必要はありません。
なお、リンを打つことは勤行における重要な作法ですから、打ち方等々、お手次ぎのご住職にお尋ね下さい。
14. お内仏の掃除と、仏具の「おみがき」の仕方を教えてください。
掃除やおみがきが行き届いているお内仏にお参りするということは、気持ちのいいものです。それゆえに、お内仏の掃除とおみがきは、大切なお給仕の基本といえます。
掃除の仕方
漆や金箔などの部分には細心の注意が必要です。
漆塗りの部分は柔らかい布や仏具店で売っている専用のダスターで空拭きをします。決して市販の化学ぞうきん等を使ってはいけません。
また、金箔の部分は絶対に拭いてはいけません。
毛箒などでかるくほこりをはらうだけにしておきます。
細かい彫刻の部分用に、専用の筆を準備しておけば便利です。
おみがき
「おみがき」とは市販されている金属磨きで仏具を磨くことをいいますが、真鍮製のものに限ります。
宣徳製の仏具はもちろんのこと、最近では真鍮にメッキを施したものや、経年変化防止のために表面にコーティングを施したものもあり、それらのものには金属磨きを使用できませんので十分に注意して下さい。
法事や行事の前には家族でおみがきをし、心新たに迎えたいものです。
15. 真宗では「般若心経」をあげないと言われますが、なぜですか?
般若心経は、写経をはじめひろく一般に受け入れられている、わずか二百六十二文字の短いお経です。
その内容は菩薩の智慧(般若)を得て、仏の悟りに近づく自力の実践行と言っていいでしょう。
いわば自己の力の実践において悟りを得るのですから、自力を尽くし切れるエリートしか救われない教えと言っても過言ではありません。
ある先師は、「論理に偏り過ぎ、そこに自我がついてくる悪取空というものがでる」とも仰いました。
親鸞聖人は、一切の自力の行を積むことの出来ない、たとえ積むことができても、最後まで積み通せず、仏の悟りに近づけないわたしたち凡夫を「いずれの行も及び難き身」とお示し下さいました。
そのことから申しましても、菩薩の智慧(般若)を得て、仏の悟りに近づくという自力の実践行は、かえって無条件に救うと誓われた阿弥陀如来に背く歩みと言えます。
努力を否定するのではありません。いかなる力もわが力に非ずという絶対他力の中に生かされてあることに驚き、讃嘆されたのが、親鸞聖人でありました。
その教えをいただく真宗門徒に、般若心経のお勤めはありません。
16. 「花まつり」について教えてください。
花まつりとは灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)といって、お釈迦さまのご誕生をお祝いする行事です。
お釈迦さまは、古代インドのカピラ城の城主、浄飯王(じょうぼんおう)と摩耶(まや)夫人の間にお生まれになりました。
七歩歩まれて右手で天を、左手で地を指さして「天上天下唯我独尊」と宣言されたということはあまりにも有名です。
常識から考えると、生まれたばかりの赤子が、七歩も歩めるはずがないと言われるかも知れません。
しかし、ここでいう七歩は六歩を超える、つまり六道を超えるということです。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天を指します。
すなわち「七歩」ということは、迷いの世界、六道を超えるということを意味します。
また「天上天下唯我独尊」という宣言は、この世の中で私ひとりだけが偉いというようにとられ、誤解されやすいですが、「私ひとりだけが尊い」ではなく「私ひとりにして尊い」ということです。
それはすべての人の上に成り立つ宣言で、それぞれにそれぞれが尊き命を賜っているということです。
お釈迦さまがお生まれになったのは、今から二千五百年ほど前のことですが、その教えは永き時間・空間を超え、今なお私一人の上に働き続けて下さっています。
17. 「お経」は何のためにあげるのですか?
お経を「あげる」といいますが、「あげる」中身は「いただく」ということです。「いただく」とは、亡き人を縁として「仏法」を「いただく」ということです。
お経は釈尊の説法です。生身の身体を持った人間を相手に説かれた教えです。その教えを「いただく」のです。
ですから「お経は亡き人の追善供養のためにあげるもの」ではありません。
読経は元来、お経を記憶し流布することと、その教義を理解して実践することの意味でしたが、大乗仏教に至って読誦そのものにも宗数的意義(行)が認められるようになり、その上、日本や中国の土着宗教と交わり、死者供養・雨乞い等にも使用されるようになり現在に至っています。これらのことが読経に対しての誤解を生み出したのでしょう。
また、真宗におけるお勤めは「教えをいただく」だけにとどまらず、その教えの主である仏様をおほめする、つまり「仏徳讃嘆」を意味します。
私のような者でも救わんとする仏様のご恩に報いる道は、お徳を讃嘆し、仏様に帰依するしかないのです。
そのお言葉を「南無阿弥陀仏」と申します。つまり、お念仏を称えることは、お経をあげることにつながっているのです。
18. 人が亡くなると、「忌中」と書いた紙を貼りますが、なぜですか?
仏教では、人が亡くなった後の四十九日間を「中陰」(中有・中蘊)といいます。ところが、いつの時代からか「忌中」という言葉も使用されるようになりました。
「忌」とは「忌み嫌う」という意味で、神道やその他の土俗信仰からきており、習俗の中で多くの禁忌を生み出し、死さえも死穢(死のけがれ)として忌み嫌うようになりました。
その上、死穢は伝染するからそれを防ぐため塩で清めるとか、「死穢があります」との「忌中札」を貼るような風習さえも生み出しました。
そういう意味で「忌中札」は無用のものでありましょう。
しかし、「忌」には「忌み慎む」という意味もあります。雑事を忌み嫌い、身を慎み、仏事に耳を傾けるということです。
一周忌・三回忌等々の年回法要の「忌」がこれにあたり、「忌中札」の「忌」も本来この意味だったのでしょうが、現在では前述のように使われています
近親者の死という事実とその意味から目を背け、「忌中札」を貼り、ただ「穢れ」、「清め」・「鎮魂」だけに走っている自分に気づき、中陰をご縁に、仏法を聞く身にさせていただくことこそが大事なのではないでしょうか。
19. 真宗では「お茶やお水」を供えてはいけないのですか?
あるお宅で、同じ質問を受けたときのことです。「なぜお供えするのですか」とこちらが逆に問い返しますと「ご先祖さまの喉が渇かないように……」という返事がかえってきました。
しかも、これはおじいちゃん、これはおばあちゃんというように、自分の記憶にある先祖だけに水を供えておられるのです。
心情としては、分からなくもないのですが、この行為は浄土に還られたご先祖を仏としてではなく、喉が渇いたり、おなかが空く餓鬼として見ているあり方なのです。
では、真宗ではまったく水を供えないのかというとそうではありません。
「華瓶(けびょう)」という仏具の中にすでに水があがっており、その水がいつでも清浄であるように、樒をさしてあります。
お仏飯は仏飯器、水は華瓶でお供えするように、荘厳のひとつひとつは仏さまへの報恩謝徳の現れといえましょう。
尚、華瓶のない場合は、あえてお供えする必要はありません。
また、茶湯器やガラスコップなどでお茶やお水を供えることは「追善」の色が濃く、真宗の教えにそぐわないので一切いたしません。
20. 「お彼岸」について教えてください。
お彼岸は春分と秋分の日を中心とする一週間をいい、インドや中国には見られない日本独特の仏教行事です。
彼岸とは梵語の「波羅蜜多」、訳して「到彼岸」の略で、彼岸つまり浄土を意味します。
「彼岸」に対し、こちら側の岸を「此岸」といいます。
七高僧のお一人である善導大師の「観経疏」には、「その日、正東より出て、直ちに西に没すればなり。弥陀の仏国は日の没するところにありたり」とあり、大師を非常に崇敬せられた源信和尚は「往生要集」において、「春分秋分の二時の日没所は、極楽の東門に当たる」と述べて、お念仏を勧められました。
つまり、その日太陽が真東からのぼり真西に沈むことから、西方の10万億土の地にあるとされる浄土を願うことが彼岸の始まりであり、同時に浄土に還られたご先祖を偲び、墓参りをするという習慣が定着してきたのです。
お念仏の教えをいただく私たちは、お彼岸だからといって特別なことはしませんが、「忙しい」と走り回る足をしばし休めて、亡き人を偲び、今を生きる私が仏法に遇うご縁といただきたいものです。