真宗佛光寺派 本山佛光寺

佛光寺のご紹介

佛光寺概略

宗派名 真宗佛光寺派
所在地 京都市下京区新開町397
所依の経典 浄土三部経
(『仏説無量寿経』 『仏説観無量寿経』 『仏説阿弥陀経』)

佛光寺のご紹介

佛光寺の草創

越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。
この草庵が佛光寺草創と伝えられています。
当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。


中興了源(りょうげん)上人

親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世了源上人になって、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。
人々は風になびく草木のごとく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応二年(1320)には、寺基を山科から今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。

建武二年(1335)十二月八日、上人はご教化の途上、伊賀(三重)の七里峠において賊徒に襲われ、正法流布のご生涯を閉じられたのですが、その死に臨んで自己をあやめんとする者に対して「この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教ゆべし」とお諭しになりました。
時に上人42歳でした。了源上人は、わが国で初めて真宗教団を組織され、念仏不毛の地を耕されたお方で、佛光寺のみならず真宗教団の中興の祖といっても過言ではありません。(了源上人絵詞へ)


佛光寺の寺号

佛光寺が繁盛するにしたがって、それを妬む輩が現れ、ある夜ご本尊や法宝物を盗み出して竹やぶに投げ捨てました。

その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。この仏像がわがご本山の阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています。


了明尼公(りょうみょうにこう)と真意尼公(しんににこう)

了源上人亡き後、第八世を継職された長子の源鸞上人は在職十三年で病没され、やむなく了源上人のお裏方、了明尼公が第九世の法灯を継がれることになりました。

六百年以上も昔、五障三従(ごしょうさんしょう)の女人と言われた女性差別の激しい南北朝時代に、女性が一山の門主の地位に就くということは、まさに革命的な出来事です。
「本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし」とのみ教えを具体的な形を通して世に顕正したのです。

以後、佛光寺は性別による差別のない開かれた教団として、多くの女性が教団護持に携わってきました。
特に、第二十七世を継承された真意尼公は、江戸から明治へという時代の激変期にあって、第二十五世真達上人亡き後、元治の兵火で灰燼に帰した本山を背負い、お念仏一筋に法灯を守り抜かれました。
現在の本山両堂をはじめとする諸堂は、真意尼公の手によって再建されたものです。


聞法に生きる教団

寺基を洛中東山に移し、後醍醐天皇から寺号を賜った佛光寺は益々隆盛を極めました。しかし、それとともに延暦寺の弾圧が強まり、応仁の乱を境に寺勢は次第に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなりました。
天正十四年(1586)には豊臣秀吉の要請により、寺基を五条坊門(現在地)に移しました。

京都の中心部に移転して四百年余り、その間にも多くの法難に見舞われましたが、門末の念仏相続のご懇念によって佛光寺の法灯は守り継がれてきました。その伝統をふまえ、本山では「深きいのちにめざめ 一切を拝める人になろう」をテーマに、混迷する現代社会にあって、お念仏の大地に根ざした真の人間の誕生を目指して活動しています。

教団の使命

苦しみ悩み迷うことの原因を、自分の外に探しても、一時的な解決にしかなりません。悩みの因を他に求めても、現に悩んでいるのは自分自身なのです。ですから一つ解決しても、また次から次へと苦悩が起きます。

苦悩を起こす自分自身に目を向けなければ本当の意味で解決はありえません。この自分自身を問題とし、自分の在り方を映し出してくれる教えを「仏教」といいます。今まで気づかなかった自分に出会い、自分に戴いているいのちの尊さに目覚めるお教えです。

今から2500年程前インドに生まれられたお釈迦様は、生まれ変わり死に変わりを信じる人々に、一度きりの人生を、限られた時間に、他と較べることなく輝いて生きることを説かれました。

お釈迦様の言葉に頷かれた人々は、お釈迦様が亡くなられた後もその教えを口から口へと受け継ぎ広めていく中で、やがて「いつでも、どこでも、だれでも」が輝いて生きる道を大乗と呼ぶようになりました。

それはたとえお釈迦様在世から時が過ぎ所が変わるとも、教えがあれば必ず救われる、つまり必ず輝いて生きられるという多くの人々の体験から生まれたのです。

その教えは、大乗の至極といわれる浄土三部経として編纂されました。
中国・朝鮮を経てわが国に伝えられたお釈迦様の教えは、鎌倉時代に法然上人・親鸞聖人によって浄土真宗(浄土を真実の拠り所として生きる)として実を結びました。

親鸞聖人は、お釈迦様がこの世にお出ましになったのは、個人の能力や体力や財力等にかかわらず必ず救われるという阿弥陀仏の無条件の救済を説くためであると言い切られました。

20年に及ぶ比叡山での修行を断腸のおもいで捨てられた親鸞聖人は、法然上人によって見開かれた、人間の生きる事実に立つという眼をもって念仏一筋にその生涯を終えられました。

教団の使命は、親鸞聖人によって実証された、生き生きと生きるという念仏往生の、誰でもが歩める大道を、自ら歩み、また人に勧めることにあります。

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