真宗佛光寺派 本山佛光寺

今月のともしび

常照我

撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏

 夜半、目が冴えて窓を開けてみると、静かな庭に花火が開いたように、たくさんのコブシの花が光っている。
 しんと月の光を浴びて、たくさんの灯明のように、花は厳かに輝いていた。
 今この白い花を見ているのは世界中で私ひとりなのだと気がついて、夢のような、もったいないような気持ちに襲われた。
 「月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」
法然上人のことばが浮かんだ。
 月影は月光のこと。阿弥陀如来の光、はたらきは、どこまでもさえぎられずに私たちのところにとどいている。
 あのコブシの花は私だ。自分自身は照らされていることに気づけないままでいるのに、何ということか、すでに煌々と輝いているのだ。

  (機関紙「ともしび」平成31年3月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

愚禿が心は
内は愚にして
外は賢也

『愚禿鈔』より(「佛光寺聖典」四三五頁)


【意訳】

 自身は、愚かな凡夫であるゆえに、私の心は内に愚かさを持ちながら、外観はさも賢く見せて生きている。


 「いつもなら渡っちゃうんですけどね…」
 知り合いのA君が、照れながら語ってくれたのは、幼稚園にあがったばかりのお子さんと外出していたときのこと。車の行き来が少ない横断歩道は赤信号。いつもなら、躊躇なく渡ってしまうのに、子どもの手前、渡ることが出来なかったといいます。
 しかも子どもの方から「赤信号は渡っちゃいけないんだよね」と言われ、心の中を見透かされているようでした…と。


内と外
 上記の言葉は、自身を「愚禿」と名のり、自らを愚かな凡夫として生き抜かれた親鸞聖人の「愚禿鈔」という書物にある言葉です。
 内なる心に反して、外にはいい格好をしたい。それはA君だけに限らず、誰にでも思い当たるふしがあるのではないでしょうか。

何がわかる?
 「自分のことはわからんけど、他人(ひと)のことはよくわかる」という言葉を耳にすることがあります。しかし、自分のことがわからない者に、他人の何がわかるというのでしょうか。
 わかったと言ってみたところで、自分都合の色メガネで見ているにすぎません。
 親鸞聖人は、その色メガネを一度も点検することなく、確かなものとして生きている姿を「内は愚にして外は賢なり」という言葉で厳しく自身を問われました。
 それはそのまま私たちの生きる姿を問うことばとして響いてきます。

  (機関紙「ともしび」平成31年3月号より)

 

仏教あれこれ

「雑念三昧」の巻

 以前タイのバンコクを訪れた際、外国人旅行者も参加できる瞑想体験に参加してみました。タイの寺院の瞑想とはどんなものだろうと、興味を惹かれたのです。
 お寺に着いてみると、仏教に関心を持ち、世界各地から来ていた男女数名の先客が。最初に指導僧から瞑想法の解説があり、その後すぐに実践開始です。
 まずは、歩行瞑想。半地下の小部屋を、一歩一歩足に意識を向け、ひたすら往復します。おお、これを阿弥陀如来の周りで、弥陀の名を称えながら行えば、常行三昧?けれど五分も経たないうちに、明日はどの名所を見に行こうかなあなどと、あっという間に雑念三昧。
 しかも、指導僧は実践が始まってすぐに部屋から出ていかれたので、簡単にサボれてしまう。いやいや、何のために来たんだよと思い直し、何とか所定の一時間をクリア。
 次は、呼吸瞑想。座った姿勢で、息を吸って、吐いて。息の流れをお腹の膨らみで感じます。しかし、すぐに足が痺れて痛くなり、集中力は散り散りに。終わったら何を食べようかな、マッサージに行きたいな…。やはり雑念の嵐です。集中を促そうと目を閉じれば、睡魔に襲われ船をこいでしまう始末。
 そんな己との格闘の小一時間が終わる頃、指導僧が戻って来られ、感想と質問タイムで終了しました。
 ほんの三時間ほどのプチ体験でしたが、自分がいかに次々と湧き出る煩悩に無自覚に流されて生きているか、ありありと感じた気づきの機会となりました。

  (機関紙「ともしび」平成31年3月号より)

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