真宗佛光寺派 本山佛光寺

お話

私の親鸞さま

見えない出遇い

 「あなたが最も慕っている人は?」

たとえば右のような問いに対して、あなたはどう答えるでしょうか。

 たぶん、多くは身近な人の名をあげるかもしれません。父母や恩師、先輩、親友、若い人なら恋人やアイドルの名を、あげる人もあるでしょう。

 それはそれで、幸せなことです。

 慕う心を運んでその人のことを考えるとき、私利私欲はいったん、我が身を離れているからです。さらに慕わしい人が身近に誰もいないことほど、不幸なこともありません。

 けれども、少し視野を広げてみると、今はもうこの世におられなくとも、時代を超えて私一人を衝き動かす、実際には会ったこともない人が慕わしい、ということも起こりうるのではないでしょうか。

 そうした、いわば見えない出遇いが、心の最深部ではじまるとき、それを「宗教的出通い」と呼びます。

 以前、ある報道機関が「我が国の宗教家であなたが一番好きな人物は?」というアンケートを行ったことがあります。

 その結果、ダントツで一位だったのが親鸞さまでした。

 識者の分析は、親鸞さまの深い人間理解と人間を見る眼の確かさ、そして煩悩という誰もが抱える根本的な悩みと迷いに、正面切って向かい合った正直さ、その辺りに共感が集まったのではないか、というものでした。つまり、慕わしい人だったのです。

 

慢心の深さ

 知名度、人気ともに大変高い親鸞さまですが、それでは果たして、私たちはどれくらい親鸞さまを理解しているのでしょうか。理解というのが適切でないなら、どれくらい親鸞さまのおこころをいただいて生きているのでしょうか。

 自分に関して言えば、とてもお恥ずかしいとしかいえない身の事実が、見えてきます。

 かつて、親鸞さまの教えを学び、また聴聞されて来られた人がいました。

 あるとき別の人がその人に向かって「君も大分親鸞さまに近づいてきたね」とほめると、「いや、まだそんな高いところへは行っていないよ」と答えるものですから、「誰が高いところと言った?君もやっと親鸞聖人のところまで降りてきたね、と言ったんだ……」

 右の応答で気づかされるのは、すぐ高い所へ登りたがる自分、気づかぬうちに慢心している自分の姿です。

 

かけがえのない一人

 そんな私に、親鸞さまはくり返しまきかえし、自己の本性、自己の位置を教えて下さいます。煩悩だらけの人間だよ、と。

 その親鸞さまは、法然上人という生涯の師を終生尊ばれました。特にめずらしい法を弘めているのではありません、と念仏の伝統の中で徹底して法然さまをはじめとする先人を立てておられるのです。

 人はみな、一番になりたがります。

 企業の戦士からスポーツ選手まで、それは偽らざる人の世の競争心理でしょう。一番ではなくとも、人より明らかに下というのは、正直、我慢がならないものです。だから努力します。そして挫折します。

 親鸞さまの歩んだ道は、ナンバーワンではなく、オンリーワン。他人に勝って上に立つのではなく、如来に見いだされたかけがえのない一人を自覚するのです。

 

 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり

 

 『歎異抄』に述べられたその「一人」です。それは、人と比べる必要のない世界、如来と私とが一切のまじりものを排して向かい合う、徹底して純粋なる信心世界です。

 同じ『歎異抄』の次のおことばは、あまりにも有名です。真宗門徒のいかに多くの方が、この箇所をそらんじては、「信」の一念の確かめとされたことでしょう。

 

 親繋におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり

 

信心の行者

 従来仏教は、教えがあって行じて証する、「教行証」の三つがその内容でした。いわば当り前とされていた「信」を「真実の教・行・信・証あり」というかたちで改めて重要視した最初の人が親鸞さまでありました。

 ここには、その「教行信証」が、ある意味で端的に顕わされています。

 「ただ念仏して」が「行」、「弥陀にたすけられまいらすべし」が「証」、「よきひとのおおせをかぶりて」が「教」、「信ずるほかに別の子細なきなり」が「信」という具合です。

 そしてここにはまた、見事なまでに自立し、独立した信心の行者としての親鸞さまがいらっしゃいます。「ほかに別の子細なきなり」というのは、それで充分だ、他に何も必要でない、ということです。ですから全体はちょつと聞くと消極的な発言にとられがちですが、実は、先の「一人がためなり」とあわせて、ゆるぎない自信に満ちた、人間としての一種の「独立宣言」なのでした。

 

時を超えて

 二十世紀は、振り返って科学と戦争の世紀といわれました。二十一世紀は、何の世紀になるのでしょうか。

 百年後に、あまり芳しくない称号を付されないためにも、真実の宗教を求めてゆくことが、地球的課題となってきているのではないでしょうか。

 七五十年の時を超えて、親鸞さまは、共に歩みましょう、と私たちに呼びかけて下さっています。

 親鸞さまは、私にとってまず第一に、歌の文句ではありませんが、心深き人であります。そして真実の人、さらに懐かしき人、涙に泣き濡れたなら、人の世に疲れたなら、いつでもそのあたたかいふところに帰ってゆける人です。

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