真宗佛光寺派 本山佛光寺

家族の絆を考える

無残な生きかた

 現在、「家族」が崩壊しつつあります。

 家父長制による大家族、三世代同居、そして核家族と、家族の形態も時代によって変化しましたが、変化はそれ自体悪いことではありません。

 変化をしながらも、これまでは、家族がやわらかなクッションのような役割を果たすことによって、私たちは他者との関係を構築してきました。しかし崩壊しつつある今、私たちは激しくぶつかり潰しあうか、最初から存在していないものとして互いを消し去ろうとするのです。

 今改めて、自分と周りを見渡してみると、家族の中ではなく、群れの中にいるような人はいませんか。風の通る家ではなく、空気の澱んだねぐらに住んでいないでしょうか。他の人が入ってこられないように車座になって損得ばかりの話をしていないでしょうか。

 これらは人間自身が「自己家畜化現象」によって変質してしまった結果なのだそうです。自己家畜化とは、人間の歴史によって身についてきた知恵のかたちを、私たちが自らを飼いならすことで平気で捨てていることなのです。

 自分の想定内のことしか自分の身には降りかからない、想定外の出来事が起こるはずがない、しかも想定されている内容は自分の都合の良いことだけ、という人生を生きているのが、自己家畜化されたものの姿です。

 

人間の私

 法蔵菩薩の誓いの第一に「地獄餓鬼畜生の三悪道に堕ちるものがいるならば私は仏にならない」とあります。

 実は「自己家畜化現象」の結果としての私たちの姿は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の世界であるといえるのです。

 法蔵菩薩が「三悪道に堕ちる者なかれ」と誓われているそのこころは、自らを進んで家畜化してはならないという、人間として生きるための大前提をあらわしているのではないでしょうか。

 なぜならば仏教は、孤の中に沈み、虚しさの奥底で独り言を繰り返すものを生み出すのではなく、生きとし生けるもののいのちを担う人間を生み出すものだからです。

 次の詩には、日常に埋没する私たちの姿と、こころの叫びが表現されています。

『一番好きなもの』

                岡本理恵

私は高速道路が好きです

私はスモッグで汚れた風が好きです

私は魚の死んでいる海が好きです

私はごみでいっぱいの街が好きです

殺人 詐欺 自動車事故が好き

そして 何よりも好きなのは

多数の人が 涙を流す 血を流す 戦争が大好きです

飢えと 寒さの中で 闘って死んでいく姿を見ると

背中がぞくぞくするほど楽しくなります

毎日 毎日 大人が 子供が 生まれたばかりの赤ん坊が

次から次へと 死んでいるかと思うと 心がゆったりします

歴史を歴史と感じ 過去を過去として思う

無感情な 時の流れに 自分自身に

たまらなく喜びを感じます

 

こんな私を助けて下さい 誰か助けて下さい

たった一粒でもいいのです

こんな私に 涙というものを与えてください

たった一瞬でいいのです

こんな私に 尊さというものを与えて下さい

私の名前は 人間といいます

         (松扉哲雄『自身に目覚めん』に所収)

 三悪道に心地よく浸りきっている自身の姿と出遇うことによって独り絶望の淵に立たされた時、私たちが本当に求めているものは何かを教えてくれる詩です。

 親鸞聖人のいただかれた世界は、先の詩にもあらわされている慙愧の心を、私たちに伝える智慧の世界であり、人間として生まれた私のことを、私より深く念って下さっている念仏の世界でありました。

 自分の無残さに打ちのめされ、その自分をこそ救わんと抱きしめてくださっていた如来の心に出遇ってこそ、こぼれおちる一粒の涙ではないでしょうか。

 

抱きしめて放さない

 思えば、家族とは帰る処です。帰る処とは涙を流せる処であり、周りのいのちとの関係を修復する処であり、そしてまた立ち上がって歩み始める処でもあります。

 善導大師は「帰去来、魔郷には停まるべからず」(『観経疏・定善義』)と述べられました。魔郷とは欲望の虜になって、親や子どもまで売り渡す世界のことでしょう。我欲の満足に命をかけ、それだけでは飽き足らず、周りのものを煽り続ける三悪道を終の棲家にしてはならない、罪の自覚の上に開き直ってはいけない、今すぐ如来の御心の元に帰りなさいとおっしゃるのです。

 そうおっしゃられても帰るすべを全くもっていないのが、先の詩の通りの無残な生き様の私たちです。そんな私たちに如来は「南無阿弥陀仏」と喚びかけられます。

 如来の、私たちを抱きしめて離さぬというお心を私たちに届ける手立ても、実はまた如来によって「南無阿弥陀仏」の名号として準備され、念仏として届けられているのです。

  子の母をおもうがごとくにて 衆生仏を憶すれば

  現前当来とおからず 如来を拝見うたがわず

                    (「浄土和讃」)

 如来の摂取不捨の精神は、私たちがどんなに無残な生きかたをしていようとも、母のように抱きしめ離さないのです。

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