真宗佛光寺派 本山佛光寺

2017年12月のともしび

常照我

「椿」 撮影 藤宮 賢樹氏「椿」 撮影 藤宮 賢樹氏

 以前は、猫の手も借りたいと走り回っていた師走。テクノロジーの進歩により、様々な電化製品が増え手仕事が減った。
 インターネットに掲載された「葬儀もIT化」との見出し。法衣を着た、ロボット導師の姿が映し出され、木魚をたたき読経をしている。
 各宗派に対応し、説法もすることに驚く。参詣者は、スマホで電子芳名帳に名前を入力し、遠方にいてもインターネット上でお参りができるという。
 葬儀とは、共に暮らし歩んできた方々との別れの場でもあり、死を考えさせられる時でもある。そこに生まれるのは、苦悩を共にした、人間ならではのぬくもりのはずだ。
 儀式の仕様は様々だ。しかし、どんなに有能なロボットでも介入できないことを願いたい。

  (機関紙「ともしび」平成29年12月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「言葉」の巻

 師走です。年末です。年の瀬です。と聞くと気持ちが焦り、年賀状を書かなきゃ!大掃除もしなきゃ!おせちも!と、あれもこれもと頭がいっぱい。今年こそはお正月までにキチッとやるべきことは終え、清々しい気持ちで新年を迎えたい。そう思うのですが…。今年も、“中”掃除くらいで諦めてしまいそうです。
 ところで仏教者・安田理深が「人間は迷うというが、何に迷うのか?言葉に迷う」と言われましたが、まさにそう。師匠が走るという、師走。え?師匠まで走っちゃうの?と、聞くだけで焦ってしまいます。年末と聞けば、あぁ、今年も終わってしまうと感じ。年の瀬と聞くと、気持ちまで瀬戸際に押しやられそうです。
 師走。年末。年の瀬。そう聞いた瞬間に、その言葉に縛られている私がいます。まさに、それらの言葉に迷っているのです。
 そしてこれは、あらゆることにいえます。例えば、病気もそうです。病気という言葉に縛られるのです。病気そのものの辛さ、苦しさより、その言葉が連想させるもの。長く仕事を休むと、会社での立場が悪くならないか?家族に迷惑をかけないか?それらの思いにとらわれ、迷うのです。
 今まで生きてきたなかで得た知識、知った情報、それらがまるで連想ゲームのように、ひとつの言葉から網の目のように広がっていく。そして、その網に縛られ、迷っている私。なのに、迷っていることにも気づかない…。お正月でもないのに、ほんとオメデタイ。

  (機関紙「ともしび」平成29年12月号より)

 

和讃に聞く

弥陀初会の聖衆は
算数のおよぶことぞなき
浄土をねがわんひとはみな
広大会を帰命せよ

浄土和讃(『佛光寺聖典』五八二頁 一六首)


【意訳】

 阿弥陀仏の最初の説法の座に集まった尊者がたは、とても数え尽くすことができないほどです。浄土に生まれようと願うものはみな、広大な法会の主である阿弥陀如来に帰命しなさい。


 わたしがお浄土を思い浮かべるとき、その広く美しい世界には阿弥陀様がおひとりでかがやいておられ、ほかには誰もいないというイメージがありました。ですから「広大会」ということばが阿弥陀様の別名だと知ったときには、びっくりしました。


迷惑をかけない世界
 テレビを見ていると「終活」の特集が増えてきました。子どもに迷惑をかけないように、生きている間に親はしっかりお墓や葬儀の準備をしなさいと、あおられているようです。また、冠婚葬祭を簡単にすませようという風潮もあるようです。
 最近は身内だけで「家族葬」をしたいという要望がわたしの地域でも出てきました。

ともに集う意味
 こんなことがありました。最近、家族葬をされた方が「後悔しました。次々と弔問の方が『後で知りました』と訪れるんです。父を偲んで手を合わせる方がこんなにいるとは知りませんでした。お世話になりましたと泣きながら、自分の知らなかった昔の父のことを話される方もいました」とおっしゃいます。
 そして「家族だけで静かに偲ぶことができて、いい面もありましたが、お通夜や葬儀は家族だけのものではなく、父のものでもあり、父が人生で出遇った皆さんのものでもあったのかなと思いました」と。
 わたしもお通夜や葬儀に参列することがあります。そこには、読経に加わり法話をお聞きする中で、みんなが同時にご本尊に向かって合掌する姿があります。ご遺族が緊張されながら訥々と語るご挨拶をお聞きします。これも寺での彼岸会や盂蘭盆会と同じ、仏法に出遇う大切な場、「法会」だなあと思うのです。

  (機関紙「ともしび」平成29年12月号より)

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