真宗佛光寺派 本山佛光寺

2017年1月のともしび

御親教

門主 渋谷 惠照

 本日は、親鸞聖人さまのご生涯をお偲びする御正忌報恩講に、ようこそお参り下さいました。ただ今は大阪教区、新潟教区を始めとする大勢の門信徒の皆さま方と共に「正信偈」をお勤めできました事を大変嬉しく思っています。
 まずはじめに、皆様にお知らせしたいことがございます。長い間ご心配をお掛けしていました門主後継者に、第三十代真承上人の長男、真覚新門が相承することになり、この度の御正忌報恩講に初めて出仕いたしました。今後、皆さま方とご一緒にお念仏のご縁をいただくこととなりますので、宜しくお願いいたします。
 今、京都は木の葉も色づき、静寂な様相を呈していますが、自然界は時折、大きく相(すがた)を変えることがあります。四月に起こった熊本、大分地方での地震をはじめ、各地で様々な災害が起こっております。ここにあらためて被災された皆さま方にお見舞い申し上げます。
 また、国の内外では、いじめや暴力、頻発するテロなど、いのちを軽視するような痛ましい事件が後を絶ちません。現代社会はいよいよその闇を深めています。
 親鸞聖人はご和讃に、
   弥陀成仏のこのかたは
   いまに十劫をへたまへり
   法身の光輪きはもなく
   世の盲冥をてらすなり

と、お示し下さっています。
 このご和讃は、自分中心の思いの中で生きている私たちの姿を照らしてくださる阿弥陀さまの、み光を讃えられたものです。このみ光に照らされるとき、はじめて私たちは、一人ひとりの闇の深さが知らされてくるのです。同時に今まで気づくことのできなかった私自身を支え、育んでくださっている世界に気づかされ、大きな喜びの心が生まれてまいります。
 これからも親鸞聖人さまのお示しくださいましたお念仏のみ教えを、共々に聞いてまいりたいと思います。
 本日は御正忌報恩講にようこそお参り下さいました。

平成二十七年 御正忌報恩講 大逮夜法要 御親教より

 

年頭のご挨拶

宗務総長 佐々木 亮一

 初春の 明き光を 身に受けて
 聴き開かなん 御国への道

 明けましておめでとうございます。新年にあたり謹んで年頭のご挨拶を申しあげます。
 現内局が発足し早や四回目の正月を迎えました。その間、時代社会に応じた念仏相続や宗門の皆様が誇れる佛光寺教団を目指して取り組んでまいりました。また、昨年実施しました門徒調査では、ご門徒の皆様から暖かい励ましや厳しいご批判を頂戴し、心から感謝申し上げます。この調査結果を踏まえ、今後の教団運営に活かしてまいりたいと存じます。
 さて、昨年は、私たち宗門が長きに亘り待ち望んでおりました次期ご門主、真覚新門の御誕生というこの上ない慶びの年でございました。佛光寺第三十代真承上人のご長男、真覚新門様は、十一月四日に執行されました法嗣御得度式で、「これからは、親鸞聖人に導かれる日々を送り、真承上人の志を受け継ぎ、佛光寺の法灯を継承する決意を新たにしております。」と、力強いお言葉をお述べになられました。また、御正忌報恩講に、初めてご出仕になり凛々しくお勤めになりました。私たちはこの勝縁のもと、新しい時代の幕開けとして、時代社会に応じたご教導を願うものでございます。
 一方、国の内外では、痛ましい自然災害、国際紛争、内紛、事故、事件は絶えることなく、混迷の度を深めるばかりであります。
 情報技術の驚異的な発達と普及は、居ながらにして世界の情報を瞬時に享受し得る社会を創り出した反面、私たちは、種々雑多な情報に振り回され、混迷する社会に一層拍車を掛けています。
 「よろずのことみなもって、そらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」とお説きいただいたいた聖人のお言葉が胸に響いてまいります。
 時代社会に流されること無く、正しく見つめ自分を生き抜くことをお教えいただいたお念仏のみ教えこそが、今日の時代時代を救う唯一の「み教え」といただけるのであります。
 昨年の御正忌報恩講において惠照ご門主は
   弥陀成仏のこのかたは
   いまに十劫をへたまえり
   法身の光輪きはもなく
   世の盲冥をてらすなり

と、ご和讃をお引きになり、阿弥陀さまのみ光を讃え、このみ光に照らされるとき、一人ひとりの闇の深さが知らされ、同時に今まで気づくことのできなかった私自身を支え、育んでくださっている世界に気づかされることで、大きな喜びの心が生まれてまいります。と、お説きくださいました。
 これからも、ご聖人さまがお示しいただきましたお念仏のみ教えを聴き、今年も皆さまと共にお念仏による真の生活をしてまいりたいと存じます。

 

常照我

「南天」撮影 中山 知子氏「南天」撮影 中山 知子氏

 一月の恒例行事の一つ、成人式。ニ十歳の誕生日を境に急に大人になれるわけではないが、これからは成人として振る舞います、という名告りとなる。名告りには、自覚を促し、育てられゆく力がある。
 僧侶になるために得度式を受けた当時の私は、名告る以上は相応の内実を、と意気込んだ。
 しかし聴聞を重ねて見えてきたのは、それまでの自分とは違う立派な人になれると思っていた勘違い。そして、夢幻を追い続けてきたあなたの内面の虚仮を見つめよ、という阿弥陀さまからの常なる喚びかけであった。
 帰敬式(おかみそり)でいただく法名は、仏弟子としての名告りである。私は阿弥陀さまのお心を常にいただいて生きてゆきます、という新たな自己の誕生となる。

 (機関紙「ともしび」平成29年1月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「収集」の巻

 小学生の頃、何かを集めるということが流行りました。それは可愛いシールであったり、キレイな紙であったり、他愛もないものでしたが、友人たちと交換しては楽しんだ思い出があります。
 その後、集めるものが旅先で求めたキーホルダーに変わり、そしていつしか自分が何かを集めていたことさえも、忘れていきました。きっと今も屋根裏のどこかに、大量のキーホルダーが眠っていることでしょう。
 さて、世の中には色々なモノの収集家がおられます。
 先日、ひょんなことから、友人が箸袋を集めていることを知りました。聞くところによると、「箸袋趣味の会」なる団体まであり、年に4回、機関紙も発行されているとか。割り箸の袋など、食事が済めばゴミになるもの。それを友人が欲しいと言うなら、お安い御用。気安く、集めておくよと言ったのが数カ月前のことでした。
 外食が多いので、おもしろいように箸袋が集まります。お年賀代わりといっては何ですが、友人に渡そうと思い、箱に一枚一枚入れていると、驚くほど色々なことが思い出されます。
 このお店には誰と行った、何を話した等々が、箸袋を通して、鮮やかによみがえってくるのです。と同時に、あげたくないという気持ちが私の中でわきあがってきました。その小さな袋には、大切な思い出がいっぱい詰まっていると思うと、惜しくなったのです。
 けれども当然ながら、思い出は箸袋ではなく、私の中にあるもの。私には必要のないものなのに、簡単に執着してしまう。滑稽だなと笑いながら、箸袋が入った箱にリボンをかけました。

 (機関紙「ともしび」平成29年1月号より)

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