真宗佛光寺派 本山佛光寺

2016年11月のともしび

常照我

「枝もたわわに実りの秋」 撮影 中山 知子氏「枝もたわわに実りの秋」 撮影 中山 知子氏

 数か月前、障害者施設に元職員が押し入り、施設利用者を次々と刺殺した衝撃的な事件。
 身内に障害者を持つ一人として、人の価値は役に立つ・立たないではない!と私は言い切れる、とニュースを聞いて思った。
 だが事件の直後、職場の同僚に「仕事ができない人、嫌いでしょ?」と指摘されてハッとした。障害者を思い浮かべて、能力に関わらず誰もが尊いと言う私は、「健常者」に対しては、人の価値を生産性で測っている。
 裏返せば自分の拠り処も「役に立つこと」にある。役に立たない自分になったら、そんな自分は無価値と切り捨てるだろう。
 「どんな私でも見捨てずたすけてくださる阿弥陀さま」と聞いてきたつもりで、真に聞いてはいなかったようだ。

  (機関紙「ともしび」平成28年11月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「キョウノオサカナ」の巻

 幼い頃、住んでいた家から十分ほど歩いたところにスーパーマーケットがありました。
 店内には魚屋さん、お肉屋さんが独立していました。私は、そこへおつかいを頼まれるのが大好きでした。
 ある日のこと、祖母にそれを促すような会話をしていました。するとついに、「どれどれ、それじゃあ魚屋さんに行っておくれ」と言われたのです。喜び勇んで、持たされたワラ半紙の小さなメモとお金を握って出かけました。
 「いらっしゃい」、威勢の良い声をかけられ店主にメモを渡すと、手際よくお魚を新聞紙に包んで渡してくれました。いったい何のお魚を包んだのだろうと考えながら家路を急ぎました。さっそく、祖母にたずねますと「それは、キョウノオサカナよ」と言うのです。「まてよ、そんなお魚は知らないな」と思いました。夕食にその答えがわかりました。それは、とてもいい匂いで焼けた鯵でした。「ばあちゃん、鯵だね」と言うと「そうだよ、今日のお魚だよ」と。
 持たされたメモには、「今日のお魚」と書いてあり、店主は、今朝仕入れた新鮮な鯵を持たせたのでした。四十数年前の、長閑な思い出です。
 遠く離れた熊本、益城町に暮らして二十八年。四月の大地震で、町の商店は倒壊しました。
 小さい店ながら、夕暮れになると買い物かごを持った人が、会話を楽しみながら賑わっていました。そんな場を失った方々の悲しみは、幾何であったでしょうか。
 先日完成した仮設のお店に、女の子がおつかいに来ていました。小さなメモを握っているすがたを見て、いずれ必ず以前のようにと、手を合わせずにはおれませんでした。

  (機関紙「ともしび」平成28年11月号より)

 

和讃に聞く

本師曇鸞和尚は
菩提流支のおしえにて
仙経ながくやきすてて
浄土にふかく帰せしめき

高僧和讃(『佛光寺聖典』六〇七頁 二一首)


【意訳】

 曇鸞大師は長生不死の法が説かれている仙経を学んでいましたが、菩提流支三蔵に出遇い、その仙経を焼き捨てて浄土教に帰依されたのでした。


 子どもがうれしそうに手に持っていたのは虫取り網。明日は虫を取りに行くのだと意気揚々。
 親として、僧侶として、命の大切さを伝えなければと思い「セミやチョウは捕まえてカゴの中に入れるとすぐに死んでしまうから、捕まえてもすぐに逃がしや」と。
 そう言った瞬間、視界に入ってきたのは私が飼っているスズムシのケース。そういえば屋外の水槽にはメダカが……。「スズムシやメダカは飼っている方が長生きできるから幸せやで」と苦し紛れの言い訳。
 確かにスズムシやメダカは飼っている方が天敵に狙われることなく、餌にも恵まれ長生きできるでしょう。でもそれが幸せだと決めつけるのは私の思い込みに過ぎません。


長生不死
 上記の和讃で、病に侵された曇鸞大師は長生不死の法が説かれている仙経を学んでいましたが、あるとき菩提流支三蔵に出遇いました。
 そして菩提流支の「仙経によって命が延びても迷いの命が延びるだけだ。仏教は迷いを超えるということを問題としている」という言葉に頭が下がり、苦労して手に入れた仙経を焼き捨てて浄土教に帰依されたのでした。

心のなかの仙経
 「健康で長生きしたい」。誰しもが願うことでしょう。私たちは知らず知らずのうちに心の奥底に「仙経」を持っているのです。
 ではこの私は心のなかにある仙経を曇鸞大師と同様に焼き捨てることができているのか、それとも大切に持ち続けているのか。
 わが身に問いかけられているご和讃でもあるのです。

  (機関紙「ともしび」平成28年11月号より)

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