真宗佛光寺派 本山佛光寺

2015年10月のともしび

常照我

「お世話になっていた」 撮影 谷口 良三氏「お世話になっていた」 撮影 谷口 良三氏

 

  亀の上に鳥、なんだかお燭台の形に似ています。それにまつわるお話を一つ。
 峡谷に亀がいました。谷は深く底には急流です。亀が渡れずに途方に暮れていると、そこに鶴がやってきました。
「鶴さん、私を乗せておくれ」「私の力では君を運べないが、君が私の足をしっかりくわえるなら、私は翼に集中して向こう岸に行けるでしょう」
 亀が鶴の足をしっかりくわえると、鶴は飛び立ちました。
 あと少しで向こう岸へ到達しようという時でした。亀は思わず「やっと着いた」と口を開いたのです。その瞬間、亀は鶴の足から離れ、はるか谷底に落ちてしまいました。
 「亀は万年、けれどゆめゆめ油断するなよ」。命の灯はそう教えくれているようです。

 

  (機関紙「ともしび」平成27年10月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「つもり」の巻

 数年前から、体調がよくありません。よくないといっても、どこかが痛いわけでもなく、全体的に体が怠い。わざわざ病院に行くほどでもないと、ほっておくと、いつしか体調不良が日常になっていました。
おもしろいもので、そうなると、不調の原因を精神論で受け止めるようになるんですね。つまり、「たるんでいる!」とか、「だらけている!」と自分を叱責するようになったんです。もちろん声には出しません。けれども心の中で、「だらけているなぁ」と反省するんです。なので、気合いを入れよう!と、高価な栄養ドリンクを時々飲んでいました。残念ながら、効くと思うのは一瞬の気休めで、原因はちゃんと別にあったんです。
 実は血液中の鉄分が異常に少なく、たまたま受けた検査の結果に、私よりも先生の方が青ざめ「歩けますか?」と、心配するほどでした。それまでは、至って元気!体が怠くしんどいのは気の持ちようと思っていたものが、体の不調の原因を、血液検査の数値という目に見えるものでハッキリと示されると、急に倒れそうな程、疲れがでてきました。
 ある法話で「なんでも知っているという闇」という言葉を聞きました。この「なんでも知っている」という「闇」は、なんでも知っている“つもり”という闇です。知っているつもり、分かったつもり、そんな“つもり”の真っ只中で、精神論、自分の思いを信じ、事実を見過ごしていたんですね。

 (機関紙「ともしび」平成27年10月号より)

 

和讃に聞く

正像末和讃

五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり

(『佛光寺聖典』六四四頁 100首))

【意訳】

 五つの濁りの増す末法の世のしるしには、僧侶も一般人もことごとく外見では、仏教徒らしく振る舞っていても、内心では、仏法とは似ても似つかぬ外道の道に迷い込みつつ、それにすがりついているのです。
 「いやぁ、自分もご和讃でいう内心外道を帰敬していましたよ」
と、事情を打ち明けて先輩住職に思いをぶつけたところ…。
 「いまごろ、わかったのか」と、にべもなく言われ、ムッとしつつも黙ってしまいました。
 何でも言い合える仲で、私自身、その先輩を時々やりこめてもいるので、今回は逆の立場。
 事情というのは、昨年のことです。運転中、不注意で人身事故をおこしてしまいました。低速でしたが当たった箇所が悪くて被害者の方は即入院。保険会社の話ですと、同様の事故で後遺症が出た例もあった、ということでした。

 とった行動
 もちろん、相手の方には毎日お見舞に行き、平謝りに謝りました。その方は、「もう、いいです。後は保険屋会社と解決しますから」と、おっしゃってくださったのですが、おだやかならぬは当方の胸の内。
 気がつくと本堂に坐り、読経していたのです。
 「〇〇さんに、どうか後遺症が出ませんように」と 。まるで相手を気遣うようにみえて、その実、自己保身の「祈り」です。わかってはいても、せずにはおれない自分を意識した時、浮かんだ上記のご和讃でした。

 ひそんでいた〈外道〉
 先輩の話はつづきます。
「親鸞聖人は、このご和讃でご自分を外道から外しておられないのだよ。この世の道俗ことごとく、なんだからね」
 あっ!と思いました。私は、本堂に坐るまで、自分を外していました。これぞ外道です。
 相手の方は、後遺症なく退院されたのでしたが、私の内なる外道は出ていかぬままです。

 (機関紙「ともしび」平成27年10月号より)

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