真宗佛光寺派 本山佛光寺

2013年5月のともしび

常照我

「逆風なればこそ」 撮影 谷口 良三氏「逆風なればこそ」  撮影 谷口 良三氏

 

 五月の空、泳ぐ鯉のぼり。
 風があると泳げるが、なければダラリと垂れ下がる。しかも風は、ないことが多い。
 人生も同様に、颯爽と風を切って泳げる機会は滅多にない。  しかしよく見ると、鯉のぼりが垂れている時も、折に触れ瞬間的に風は吹いていて、その僅かの揺らぎは、いわば鯉の滝のぼりにも似てくる。
 そんなふうに黙って鯉のぼりを見ていたら、見方さえ変えれば大抵のことはプラスにイメージできるのでは?と思った。
 私自身が、マイナスを気にしすぎて、プラスに転ずる作業を怠っていただけかも、と。
 鯉のぼりは、いわゆる逆風の向かい風に泳ぐ。けれど私は順風を好み、逆風を嫌う。
  「そんな生き方でいいの?」鯉たちの囁きが聞こえる。

 

  (機関紙「ともしび」平成25年5月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「怒り」の巻

 あなたは一日に何回、腹を立てていますか?数年前に英国のテレビ局がヨーロッパで行ったある調査によると、一番怒りやすいのがイギリス人で、平均して一日に四回怒っているとか。次がイタリア人で三・五回、フランス人が三回だったそうです。
 もし同じ調査をアジアで行ったら、さて、日本人は何回という結果になるでしょうか?混み合う通勤電車や渋滞している道路でイライラをつのらせたり、家庭内や職場で理不尽な目にあったと感じてムッとしたり。腹を立てること、結構あるのではないでしょうか。
 わが身を振り返っても、一日に一回は、後から考えると些細なことに腹を立て、感情的な言葉を口走ってしまったなあと反省します。内心でカチンときた回数を含めると、やはり日に三~四回はある気がします。
  「怒る」と一言で言っても、声に出して激昂するような強い怒りから、内心ちょっとムッとする程度の小さな怒りまで色々あります。怒りに関する表現を思い浮かべてみますと、「おこる」「いかる」「憤る」「腹を立てる」「むかつく」など、様々な言い方が出てきます。語彙が豊富ということは、それだけ日常生活に密着し、人々の関心が高い事柄であることを示しています。
  「怒り」は、日々沸きあがってくるし、取り除くことはできません。でもまずは「ああ、また怒ってしまった」と意識し、自分がいかにこの「怒り」という毒に犯されているか、見直してみませんか。

 

 (機関紙「ともしび」平成25年5月号より)

 

和讃に聞く

 

正像末和讃

智慧の光明はかりなし
 有量の諸相ことごとく
 光暁かむらぬものはなし
 真実明に帰命せよ

(『佛光寺聖典』580頁 4首)


 

【意訳】

 阿弥陀仏の智慧のはたらきは、闇を照らす光明のようです。自分中心で、自分の都合でしか物ごとを見ようとせず、しかもその事実に気づいていない闇をもった私に、光明となって照らし続けてくださっているのです。そんな限りない阿弥陀仏の智慧を、よりどころとせずにはおれません。

崩れかけた本堂の大屋根、傾いた山門、そして剥がれ落ちた塀の白壁。
 本棚から出てきた二十年前の写真には、生まれ育ったお寺の築三百年の本堂や境内が写し出されていました。
 その後、多くの方々のお力添えによってこれらは再建され、以降、たくさんの法要ならびに行事が本堂で営まれてきました。

 

  おかげさま

 何かの場で挨拶があるとき「おかげさまで・・・」と話し始めることがよくあります。本堂でいろいろなことができるのも、再建に携わってくださった方々のおかげです。
 多くの支えによってこの本堂、そして行事が成り立っていることも重々承知しているつもりでした。
 しかし「おかげさま」をあまりにも多用して、言葉自体が軽くなってはいなかったか。挨拶の枕詞のようにはなっていなかったか。もしかしたら私が頑張っているから・・・と思ってはいなかったか。
 二十年の時を越えた数枚の写真に、えも言われぬ重々しさを感じたのでした。

 

  智慧の光明

 ご和讃のなかの「智慧」とは、真実が見えない私に、その事実を知らしめるはたらきです。
 光明として譬えられますが、阿弥陀仏の智慧は、いつでも、どこでも、この私にはたらき続けてくださっているのです。あるときはお念仏を通して、またあるときはいろいろな気づきを通して。
 まさに光明のごとく、支えられているという事実とともに、私自身の慢心をも、語らずして教えてくれたのは、この「数枚の写真」だったのです。

 

 (機関紙「ともしび」平成25年5月号より)

 

 

 
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