真宗佛光寺派 本山佛光寺

2011年9月のともしび

常照我

本山境内の手水鉢 九月十二日は中秋の名月。

 月にはウサギがいて、お餅つきをしている、なんて真顔で言われると笑ってしまうでしょう。

 大人になるにつれ、知識は増えていくのですが、子どもの頃のように想像力豊かに月を眺めることがなくなりました。

 昔であれば月明かりを頼りに道を歩くこともあったでしょうが、今では街灯があり、空を仰ぎ見ることもありません。闇夜を常に照らす月の美しさを知らないのです。

 月明かりを仏さまの智慧に譬えることがあります。人間の知恵が増え、ものごとに明るいと思っている私は、照らされている事実にも気付いていません。こころは闇であるのに。

 こんな私の姿を、月にいるウサギは笑いながら眺めていることでしょう。

 

  (機関紙「ともしび」平成23年9月号 「常照我」より)

仏教あれこれ

「ゴミはどこへ行くのか」の巻

 日本の地方のある村。そこに建つ神社の大木に雷が落ち、ばかでかい穴が焼かれ倒されたその木の根元に空きました。
 村人の一人が小石を投げ落としても、音すらしません。
 いぶかしく気味悪がってもいた村人たち。けれども人間は慣れる動物です。村のゴミをその穴を利用して、どんどん投げ棄てていきました。
 それでも一向に穴はふさがらなかったので、今度は世界中がその穴にゴミを棄てに来ました。
 時は移り、地球上のある国で電柱に登って工事をしていた男の耳をかすめて、凄い勢いで地面の方から一箇の小石が飛んできました。(『穴』星新一)


 半世紀も前に書かれた星さんのSFショートショートと呼ばれた作品のあらすじです。読後奇想天外な面白さと、その底に覗く戦慄的なブラックユーモアを強く憶えています。 さて昨今の大問題、使用済み核燃料、即ち核のゴミは行き先に困っています。その放射能は場合によっては一・二万年も出つづけるそうで、地球上の地面をいくら深く掘って密封し埋蔵しても、危険であることに変わりはありません。
 ではもっと深く、もっと深くと地中深部に埋めていったら・・。ある日突然地球の裏側に・・?

 まさかそうはならないでしょうが、たとえば仏教の説いてきた<煩悩の凡夫>という互いの身の分限を忘れ、処理もできない危険極まりない核のゴミを、大量に生み出してきた現代の利潤追求型社会。
 そのツケが今、造られた核の側から回されてきました。

 

 (機関紙「ともしび」平成23年9月号より)

 

聖典の言葉

浄土和讃

慈光はるかにかぶらしめ
 ひかりのいたるところには
 法喜をうとぞのべたまう
 大安慰を帰命せよ
(佛光寺真宗聖典 五八一頁)

 

【意訳】
 慈悲の光明が遠くどこまでも影響を及ぼし、その光の行き渡るところには、信心の喜びを得ると説かれます。大いなる安らぎである仏を頼みなさい。


 子どもたちとお風呂に入りました。長女はまだ4歳。更に2歳の妹もいて、大騒ぎです。

 その日は実に多忙な一日で、週末の法要を終え、更に夜行電車で京都に向かうという過密スケジュールでした。ですから、風呂で、やっと一息ついた途端にどやどや入ってきた子どもたちに、正直少しムッとしたのです。それは、そうさせたであろう妻や母に、ムッとしたのです。

 

 曇りガラス

 まあ子どもに腹を立てても仕方ないので、洗っていると、窓の外に月が昇ってきました。満月近い月が青々とガラスに映じ、長女が「あの青い顔は何?」「お月様だよ」と答えると「大っきい!」そこでガラス戸を開けてみると今度は「あっ、小っさい!」実際の月は意外にも小さく見えたらしいのです。

 この「あっ、小っさい!」の声にハッとしたのです。これは月のことでなく、私のことだと。つまらない小さいことを、曇りガラスを通し、増幅・拡大し、腹を立てている私を「お父さんあなたは小さい人間ですよ」と言われた気がしたのです。曇りガラスは私の都合。これを通すと、小さなことも、私の都合次第で変幻自在に拡大します。

 

 法喜を得る

 この「法喜」について、親鸞聖人は「貪欲・瞋恚・愚痴の闇」を消し、散らしてくださる、という註をしておられます。都合によって「むさぼり、怒り、愚痴る」という、私の闇が明らかにされたら、何かすっきりし、爽やかな気分になりました。

 娘の何気ない一言「あっ、小っさい!」に教えられた一晩。相変わらず慌ただしく夜行電車に乗り込みながらも、心は豊かに、ぐっすりと休みました。

 

 (機関紙「ともしび」平成23年9月号より)

 
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