常照我
誕生日の「誕」という字には「生まれる」の他に「いつわる」という意味がある。この二つの意味を合わせていただくことが大切だと教わった。
私たちは、いつわりだらけの世の中に生を受けている。何が正しいのかもわからずに、一生を終えていく存在だ、と。
お釈迦様はガンジス川の砂を手ですくい「この世にたくさんのいのちがある中で、人として生まれてきたのは、河原のすべての砂のうち、この手のひらの砂ほどだ」と例えられた。
私たちは生まれてきたことをつい当たり前だと思い違いをしてしまう。当たり前と思う心が日常の不平不満を生み、「こんなはずでは…」と愚痴となる。
誕生日は、生まれてきたことを祝う日であるとともに、真実をいつわって生きてきた自身を省みる日としたい。

(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。
親鸞聖人のことば
親鸞聖人のことば
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかえりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし
浄土和讃』より
『佛光寺聖典』 五八三頁
【意訳】
阿弥陀仏の浄土に往生した人は、この濁悪の世に還り来たって、お釈迦様のように私たちを利益すること限りもない。
私が社会人になる直前に、祖母が亡くなりました。私にとって初めての家族の死でした。
走馬灯のように
家族みなで、最期を看取ることができました。しばらくして、少しだけ一人になりたくて、家の裏戸の方に行きました。そのときに、祖母との懐かしい記憶が次々と回想されてきたことを、今でも憶えています。
「そうだ、ここだった。おばあちゃんと一緒に、抜けた乳歯を屋根へ放り投げたのは」
「小学生の頃、おばあちゃんの痩せ細った手の甲の皮膚を、遊びでよく伸び縮みさせ、互いに大笑いしていたな」
走馬灯のように次から次へと思い出されてきました。
笑顔と手
祖母の死後からは、死がそれほど怖くなくなったように感じられます。ともに過ごした思い出や、祖母の姿や様子が、これまで感じていた死のイメージをなにか穏やかなものにしてくれたように思うのです。
今、私の脳裏に生きる祖母は笑い皺の深く刻まれた破顔大笑です。私に「ほうか、ほうか」といつも頷いてくれていたあの笑顔の相好です。
そしてもう一つ。それは手です。祖母の手は、骨と皮だけに思える皺の多い指の長い手でした。少しひんやりとした感触で、でもあたたかな手でした。
その祖母が、その手を合わせて、ナマンダブツ、ナマンダブツと一心にお念仏を称える姿が、私の大切な祖母の思い出のひとつになっています。
かけがえのない祖母の思い出は、私にとって、このご和讃の、浄土に往生した人が与えてくださる利益のひとつそのものにちがいないと思えるのです。
仏教あれこれ
「コードブルー」の巻
久しぶりに出かけた人間ドック。朝早く家を出て、総合病院の広い駐車場に着きました。
その時です。急ブレーキの音がして、病院の玄関の近くに車が止まりました。家族が手伝って、大柄な人を降ろそうとしているようです。しかし次の瞬間その人はバッタリと地面に大の字に倒れ、動かなくなってしまいました。
緊迫した雰囲気の中、間を置かず、病院の放送が流れました。
「コードブルー、コードブルー、病院玄関前」と繰り返されます。 すると突然、病院の中からばらばらと白衣のお医者さんや看護師さんたちが飛び出してきました。どんどんその数が増えていきます。
みんなで倒れた人を、かけ声とともに一気にストレッチャーの上に載せました。移動させながら、その患者さんの上には若いお医者さんがまたがって心臓マッサージをしています。病院内の救急部門と連絡を取っているスタッフもいるようです。ストレッチャーはあっという間に病院の中へと目の前を通り過ぎて行きました。
コードブルーとは、病院内で突発的に起こった救命活動への緊急コールのようです。
ひとりの人の生命のために、多くの人たちが力を合わせて救命にあたる姿を目の当たりにして、じわじわと感動がやってきました。当たり前にしか感じられないこのいのちが、多くのはたらきに支えられていることに気づかされたのです。
面倒くさがっていた人間ドックに行くよう促してくれた家族のおかげで、わたしは今日ここにいます。受付から名前を呼ばれると元気よく返事をして、久しぶりの検診を受け始めました。
おときレシピ Vol.98「小豆汁」

多くの真宗寺院では親鸞聖人が好まれていたという小豆を使った料理を出します。
わたしの寺では、白味噌をきかせた味噌汁に小豆を入れています。関東にしては甘めの味付けにしているのは、親鸞聖人の時代には「甘い」ことがご馳走だったことと、京都の方には白味噌のほうが馴染みがあるだろうと考えたから……と伝わっています。
一方、他のお寺では、もはや善哉に見えるほど大量の小豆を入れたものや、そもそも味噌を使っていないもの、味付けも甘いものや塩辛いものなど様々です。どのお寺でも、聖人はどんな料理を好まれたのか一生懸命考えたのだろうと想像できます。
インターネットがない時代から多くの人が心を込めて考え、今に伝わるそれぞれの小豆料理だと思うと、どちらも美味しく尊いものです。
(ワンポイント)
好みで三つ葉などを添えると香り豊かになり、見た目も華やぎます
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【監修】青江覚峰
一九七七年、東京浅草生。浄土真宗東本願寺派緑泉寺住職。
カリフォルニア州立大学にてMBA取得。料理僧として料理、食育に取り組む。著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。NHKをはじめテレビ、新聞などメディア出演も多数。
