常照我
マイクを通したご講師の声に合わせ、本堂から多くの人が称えるお念仏が聞こえてきた。祖父に手を引かれ本堂へと入る。
しばらくしてドッと笑いが起こった。幼かった私には法話の内容も、皆がなぜ笑うのかも分からない。時に黙してうなずき、時に声を上げて笑い、ある人は目に涙を浮かべ、お念仏を口にする。そのような大人たちの姿を不思議な思いで眺めていた。
お念仏は、仏の願いが私を招き喚ぶ声だと宗祖は明かす。その声のうながす先には、共に苦悩する私たちが、共に教えを聞く、聞法の場が開かれている。
十一月、今年も報恩講が勤まる。最もお念仏が響くこの季節、先ずはその響きの中に身をゆだねたい。必ず私にまで南無阿弥陀仏を届けたいとされた、仏の切なる願いをたずねるために。
(機関紙「ともしび」令和4年11月号 「常照我」より)

親鸞聖人のことば
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
『歎異抄』より(「佛光寺聖典」七九三頁)
【意訳】
人間がもつ慈悲の心とは、他人や一切のものをあわれみ、いとおしみ、守り育てる心です。
しかし、思うようにたすけきることは、ほとんどできず、限りがあるのです。
境内にそびえ立つ推定樹齢三百年のイブキの木。そびえ立つといっても斜めに傾いており、しかも木の半分ほどは枯れた状態。三本の支え木によってなんとか倒れず立っています。
伐採か再生か
先日、この三本の支え木に白アリが発生していることが判明しました。さらに調べるとイブキ本体の枯れた部分にも白アリの影が。
拡散し本堂に被害がおよぶことを避けるため、支柱を交換し枯れた部分を除去して再生させることができないか、さっそく造園業者に見てもらいました。
結果はすべて伐採しかないとの見立て。枯れた部分の除去だけでは幹が細くなり、支え木では支えきれないとのことでした。
子どもの頃には、登って遊んだイブキの木。お寺の風景になくてはならないイブキの木。本堂でお念仏をされる方々を何百年も見続けてくれていたイブキの木。
いろいろな思いが交錯しましたが、最終的に伐採の決断を下したのでした。
三百年の歴史
伐採当日には門徒さんも集まってくださって、その様子をともに見守りました。そして実際に作業が始まると、三百年の歴史ある木が、三時間程でその姿を消してしまいました。
最後に残った切り株を見つめながら、その歴史にあらためて思いを馳せるとともに、伐採の判断が正しかったのかどうか悩んでいる自分がいました。
しかし同時に、そういった中であっても「これからは毎年の剪定費用がかからなくて済む」「枯れた葉や枝が落ちてこなくて済む」と心の奥底で思っている私がいたのも事実でした。
(機関紙「ともしび」令和4年11月号より)
仏教あれこれ
「仏だん」の巻
“灯台下暗し”という通り、自分に身近なものは、実はまったく見えていないものだと実感した出来事がありました。
仏だんを新調されたご門徒の家で法要をいとなんだ後に、施主から質問を受けたのです。
「『仏だん』は、つちへんの『仏壇』、きへんの『仏檀』、両方ありますが、どちらが正しいのですか?」
お内仏の新調は、ご家族にとっての一大事です。きっと下調べをされているなかで、両方の表記に気づかれ、はたして浄土真宗の使い方はどちらなのかと思われたのでしょう。当然の疑問といえます。
ところが、日々仏前に座す、言わば“灯台守”の住職の私は、このときまで、この二種の表記の存在に気付いてさえいなかったのです。まさに“灯台下暗し”とはこのことです。
急いで調べたところ、儀式を行う意の「壇」、仏語の施す意の「檀」と、どちらも相応の意味があることがわかりました。つまり、どちらを使っても問題のないことをお伝えしました。
それからずいぶん経って最近に、宗教民俗学の五来重氏の著書に次のような内容を見つけました。「本来、仏壇は寺院の本尊をさす。一方、仏檀は檀家にあるので檀と書き分けてきた。しかし、『広辞苑』などの辞書が併記をしたために違いがわからなくなった」と。
五来氏の、この経緯の説明で二つの差異がよくわかり、何か心のモヤモヤがすっきりと晴れた思いがしました。
(機関紙「ともしび」令和4年11月号より)
おときレシピ Vol.68「蓮根と舞茸のきんぴら」

今回の料理は、味の染みやすい舞茸と、なかなか染み込まない蓮根のきんぴらです。
仏教にこんなお話があります。
お釈迦様の弟子に二人の兄弟がいました。兄の摩訶槃特は頭が良く、お釈迦様の教えを聞いたそばから理解することができました。ところが弟の周利槃特は正反対で物覚えが悪く、いつも人からバカにされていました。
そんな周利槃特にお釈迦様は箒を渡して言いました。
「『塵を払い、垢を除かん』と唱えながら毎日掃除をしなさい」
塵と言えば垢を忘れ、垢と唱えれば塵が出てこない周利繋特でしたが、お釈迦様の言うとおりに毎日掃除をしました。
六年の月日が流れ、掃いても掃いてもどこからか現れる塵を見てあるとき周利槃特は気づくのです。
「塵や垢とは人の欲望なのだ!」
言ったそばから何でも吸収する者もあれば、長い時間をかけて心に落ちていく者もある。
同じように作ってもすぐに味が染みるものとそうでないものがあるのと同じですね。
それが口の中で一つの料理として融合するのは、多様な人が集まる社会と同じようなものだと思えば、実に味わい深いものです。
(ワンポイント)
ごま油を多めにして炒めると味がいい具合に絡んできます。
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【監修】青江覚峰
一九七七年、東京浅草生。浄土真宗東本願寺派緑泉寺住職。
カリフォルニア州立大学にてMBA取得。料理僧として料理、食育に取り組む。著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。NHKをはじめテレビ、新聞などメディア出演も多数。