常照我
前年に幼いお孫さんを亡くした恩師より年賀状が届いた。
「先に浄土へと生まれた幼い命を念じつつ、静かに新年を迎えたいと思います」という印刷された文面。その横には「明けましておめでとうございます」と墨筆が添えられていた。
癒えることのない悲しみの中であろう。あえて慶びの言葉を記した恩師の覚悟に、あらためて新年の厳かな空気を感じた。
「おめでとう」に「おめでとう」と返す。思えば奇妙な言葉のやり取りだ。そこには、新たな年を迎えた今ある命の不思議さ有難さを、慶び合う意味があるのだと教えられる。
今年も多くの人にかけられるであろう「明けましておめでとう」。それは、今ある命の尊さに無自覚な私を目覚めさせる声として、身の奥底に響く。
(機関紙「ともしび」令和5年1月号 「常照我」より)

御親教
門主 渋谷 真覚
日ごとに秋も深まり、風に揺れる木の葉も彩を深め、紅葉の美しい時節となりました。本日は御正忌報恩講に、ようこそお参りくださいました。
いよいよ来年五月に慶讃法会が勤まります。その基本理念として「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」と掲げました。その「大悲に生きる人」とは、どのような方をいうのでしょう。
親鸞聖人は、『阿弥陀経』のお意をうたわれたご和讃において、
諸仏の護念証誠は
悲願成就のゆえなれば
金剛心をえんひとは
弥陀の大恩報ずべし
と詠まれました。このご和讃をいただけば「大悲に生きる人」とは、阿弥陀仏の悲願を讃嘆されている諸仏を云うのでありましょう。
親鸞聖人において諸仏とは、お釈迦さまをはじめ、七高僧の方々です。それはまた同時に私たちにとって念仏に生きられた多くの先人方であります。
現実の不安や苦悩の生活の中で、お念仏のみ教えを聞き、その中でそれぞれのいのちを燃やし尽くして歩んでこられた方、またそこに歩んでおられる方々をいうのです。
人類の歴史は、悲しみと苦悩の積み重ねです。それをお釈迦さまは、五濁悪世とお示しくださっています。その濁りを生み出すのが貪欲・瞋恚の煩悩であり、無明の眼です。
世界各地での民族対立や抗争は果てしがありません。それは何事も自分の思い通りにしたいという自己中心的な心に起因するのでしょう。その事が我が身、我が生活を危うくし、それは必ず他者との摩擦を生み、対立し争うこととなります。
そこには我が身、我が生活を守ることが、他者や他国を傷つけることにならざるを得ない大きな矛盾、そしてそれをどうすることもできない悲しみがあります。
その大きな悲しみの連鎖を阿弥陀仏も悲しまれ「どんな人をも摂め取って捨てない」と誓われております。
阿弥陀仏の大悲からの喚びかけの言葉が「南無阿弥陀仏」であり、大悲に生きる諸仏はその南無阿弥陀仏を讃嘆されております。南無阿弥陀仏のお名号を称えるところに厳しい現実を受け止めて立ち上がっていける意欲が生まれてきます。それが願いに生きる人の誕生です。
私たち一人一人が願いに生きる人となり、次の時代にお念仏の心を伝えてまいりましょう。
本日はようこそお参りくださいました。(令和4年 御正忌報恩講)
年頭のご挨拶
宗務総長 八木 浄顯
新年にあたり謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
年は改まりましたが、社会に目を向けますと、長引く新型コロナウイルスの蔓延や、出口の見えないウクライナにおける戦禍など先行きの見通せない閉塞感や不安感が続いています。そのような状況の中、温もりのない「不要不急」「自己責任」などの言葉によって人と人との出会いや繋がりが希薄になっています。そして私たちは随分その状態になれてしまったように思われます。
いつの時代にあっても生きていくことは難儀なことです。経済的に恵まれていても健康までは思うようになりません。健康であっても、家族の問題や肉親とのいざこざは避けるわけにはいきません。精神的な苦しみや、満たされない欲望といった難儀もあります。不安に満ちた日常にあって自分を支え、生かしてくれる弥陀の本願に出遇うことが大切です。本願とは一切の衆生を救わんとする頼もしいはたらきです。そのはたらきに出遇うには慶讃法会の基本理念「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」ことが大切です。親鸞聖人によって開かれた本願念仏のみ教えが、中興了源上人を経て爾来八百年の時代を超え、第三十三代真覚門主に継承されました。その間多くの大悲に生きる人が諸仏となり、我々に弥陀の大恩を報じ、お念仏を称える身となってくださいと願いはたらき続けておられます。
明年は真宗各派で宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年法要・立教開宗八百年法要を厳修します。本山佛光寺ではこれらの法要と聖徳太子千四百回忌法要・第三十三代真覚門主伝灯奉告法要の四つの法要を併せて五月に「慶讃法会」としてのお勤めとなります。有縁の多くの方々にご懇念を賜り、新しくなった寝殿で重要文化財の聖徳太子像はじめ七高僧のお木造等を間近でお参りしていただけます。現在法要円成に向け最後の準備に取り組んでいます。
慶讃法会は次の世代にお念仏のみ教えを繋いでいく新たな取り組みを実行していく始まりでもあります。それは本山や寺院が、人と人との交わりの場を創出することに最も力を注いでいくことだと考えています。昨年の御正忌報恩講で寮美千子先生は、安心できる人・場所・時間があれば人の心は動きだしますと言っておられます。お寺がそんな場所であるよう、皆様のお知恵をお借りして地域の居場所づくりとして、お念仏の響く場所として機能していく必要があります。本年は温もりのある一年でありますよう念じましてご挨拶とさせていただきます。
仏教あれこれ
「コータッコー」の巻
「『コータッコー』ってなんのことか分かりますか?」。中学生のとき、英語の授業中に先生が投げかけてきた質問です。
習っていない英単語か? はたまたアメリカでのニワトリの鳴き声か? まったく分かりません……。
先生は言いました。「『コータッコー』という単語だけだと何のことか分からないと思いますが、文章全体を聞いてみるとすぐに分かりますよ」
そして続けて「中学三年生の二学期になりました。来月には保護者の方に集まっていただき私立と公立の『コータッコー』の受験説明会を行う予定です」と。
なるほど。これを聞くと「コータッコー」が何かは明らかに。そう「高等学校」のことです。
英会話の際に、たとえ一つの単語の意味が分からなかったとしても、前後の流れから理解することも可能だということを教えてくださったのです。
「一つのことにとらわれるのではなく、全体を眺めると、それが見えてくることがある」。これは英会話に限ったことではありません。中学生がこれから人生を生きていくに当たって大切なことでもあるのです。
当時はそこまで理解できていませんでしたが、今、思い返してみるとうなずくことができます。
日常生活において、目の前にあることにとらわれてしまい、それが原因となって行き詰まってしまうこともあります。
しかし、別の視点からものごとをとらえることができたとき、たとえ解決はしなくとも道は開けてくるのでしょう。
(機関紙「ともしび」令和5年1月号より)
おときレシピ Vol.70「じゃがいものガレットいちじくのソース」

ガレットとはフランス料理の一種で、丸くて平たい料理やスイーツ全般を指します。日本ではそば粉を挽いてクレープ状にして焼き、卵やチーズ、あるいはフルーツや生クリームをのせて巻いたものが有名ですが、本来は円形に平たくのばしたものを広くガレットと呼ぶそうです。
最近の世の中はとかく「〇〇は〇〇である。〇〇でないものは〇〇でない」と叩かれがちなように思います。物事へのこだわりが大事な場面もあるものですが、なんでもかんでも「こうでなければいけない、こうでないものは認めない」となってしまうと窮屈ですし、自分の視野を狭めることにもなってしまいます。
それよりは、どんな食材でつくって何をのせても、丸くて薄ければOK!というおおらかさが実に心地よく感じられます。円形という形も、いかにも角がなくていいですね。
仏教にしても、念仏もあれば坐禅もある、籠山行もあります。入り口や見え方は違ったとしても、どれも仏教。そんな懐の深さも仏教の魅力だなと思うのです。
【 ソース 】
【ガレット】
(ワンポイント)
ガレットを焼くときにうまくまとまらない時は、塩・胡椒とともに片栗粉小さじ1程度を加えると良い。
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【監修】青江覚峰
一九七七年、東京浅草生。浄土真宗東本願寺派緑泉寺住職。
カリフォルニア州立大学にてMBA取得。料理僧として料理、食育に取り組む。著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。NHKをはじめテレビ、新聞などメディア出演も多数。