2023年5月のともしび

常照我

 今年は、親鸞聖人のご誕生から八五〇年という節目の年。
 その八五〇年を一括りにしてしまえば、ただの数字のかたまりです。でもこの年月をご先祖の人数にして考えてみると、十世代で千二十四人、二十世代で百万人もの無数の祖先の連なりが、私に繋がっているのです。
 これを仏縁の連なりとしてみると、お念仏が相続されてきた歴史の上に、今この私が仏法に出遇えているということです。
 親鸞聖人のご著書に「前に生ぜん者は後を導き、後に生ぜん者は、前を訪い」という一節があります。今を生きる私たちが、お念仏をいただいてきた無数の先達の願いをたずねていく。そしてまた次の世代へと伝わっていってくれよと託す。そんな壮大な仏縁の一端に、自分も確かにいるのです。
  (機関紙「ともしび」令和5年5月号 「常照我」より)

「藤紋様(打敷)」
佛光寺の正紋が藤であることから、本山では袈裟や打敷、水引などに多く使われている。

親鸞聖人のことば

極重の悪人は、
 唯仏を称すべし。

『正信偈』より(「佛光寺聖典」二二九頁)

【意訳】
 分かっていながら、何度も同じ過ちを重ねてしまう極重の悪人は、ただ仏さまの名号「南無阿弥陀仏」を称えなさい。

 先日、出先にて会食の予定がなくなり、妻に電話をしました。
 「今から帰って何か食べるものある?」。すると妻は「今お鍋食べてるけど……」。「無かったらいいよ。何か買って帰るから」と言うと、少し間をおいて「大丈夫、そのまま帰ってきて」との返事が。お鍋好きの私はうれしくなり、帰途につきました。

だから言ったのに
 帰宅すると長女が、「買ってきたらよかったのに……」と不満顔です。どうやら食材の量に気をつかいながら食べたようです。「だから無ければいいって言ったのに」と声が大きくなります。妻に「もう、いいから!」と遮られ、お風呂へと向かいました。
 お風呂からあがると、私一人分のお鍋が用意されていました。次女によると、妻はお鍋以外のものを食べたらしいのです。つい声を大きくした自分が恥ずかしく、妻に申し訳なくなります。
唯、お念仏を称える
 たった一時間の間に、嬉しい、不満、恥ずかしい、申し訳ないと、様々に揺れ動いた私の心。そして思わず出る言葉やふるまいにより誰かに迷惑をかけ、傷つけてしまう。だからこそ、私にお念仏が届いているのです。
 喜び、怒り、苦しみ、悲しみ、私の心がどのような感情に満たされようとも、口には唯、お念仏を称えることができる。お念仏を称える中で教えに出遇い、誰かを傷つけてしまっていることに気づいてほしい。お念仏が届いたその背景には、私にお念仏を称えさせることで、常に私を照らそうとする阿弥陀さまのお心があるのです。
 「何度も同じ過ちを重ねてしまう極重の悪人こそ、南無阿弥陀仏を称えなさい」。確信を持った宗祖の言葉が響きます。
  (機関紙「ともしび」令和5年5月号より)

仏教あれこれ

「こんなにしてあげたのに」の巻
 妻と二人で暮らす私は、週に五日、食材を買いに行き夕食を作っています。妻は病院勤務で日頃から帰宅が遅く、そのため私の仕事となりました。
 ある夕食の時でした。テレビから、世間を震撼させている「ストーカー事件」が報道されていました。アイドルの女の子を待ち伏せして、暴行を加えた事件でした。加害者は、ファンの男性。彼は、彼女のコンサートには欠かさず行き、グッズもたくさん購入し、プレゼントも送って、必死に応援していたそうです。
 犯行動機は「こんなにしてあげたのに、自分に振り向いてくれない」と、彼女の対応に対しての怒りだったと供述していました。それを受け、番組に招かれていた犯罪心理専門の先生が「加害者は、『こんなにしてあげたのに』という、被害者意識が強い傾向にあります」と解説されていました。
 私は妻に「『かけた情けは水に流す』という、故事もあるよね」と言うと「そうね」とうなずきました。
 ところが妻は「そうね」と口にした後、私の力作である肉野菜炒めを自分の皿に取り、醤油と塩コショウを多めに振りかけ、さらにもう一品の力作にも。
 私は思わず「こんなにしてあげたのに、味が不満なのか」と、腹が立ち文句を言おうとしたその時でした。
 「いま、身勝手な人が多い時代になりました。私も気をつけます。ではまた明日」とキャスターが番組を締め括ったのです。
 私は、この加害者とまったく同じ姿に気づかされました。そして、妻と同じように醤油と塩コショウを多めに振りかけ「美味しい」と口にしたのでした。
  (機関紙「ともしび」令和5年5月号より)

おときレシピ Vol.73「焼きそら豆の田楽」

 毎年この季節になると、そら豆が大好物だった先々代住職のことを思い出します。塩ゆでして皮をむき、中の柔らかい部分を数粒食べるのが大好きな祖父でした。もうずいぶん前に亡くなりましたが、今でもスーパーなどに出始めると必ず仏壇に供えています。高齢だった先々代と違い、歯も丈夫な私は皮ごといただきます。でも本当に美味しいのはそら豆を皮ごと焼き、その外皮の内側のワタの部分だと思うのです。皮を焼くことで蒸し焼きのような具合になったその部分をスプーンでこそぎ、塩や味噌をつけて召し上がってみてください。ポタージュスープのようなとろりとした甘い味わいがあるはずです。普段は捨ててしまうところが思いがけない旬の美味になる嬉しさが、祖父の思い出とともに心に温かく寄せてきます。

そら豆…4本
【 田楽味噌 】
八丁味噌…大さじ1
酒…大さじ1
みりん…大さじ3
けしの実…適量
小鍋に酒、みりんを入れて弱火にかけ、ひと煮立ちさせてアルコール分をとばす。
当たり鉢(=すり鉢)に1と味噌を入れ、丁寧に当たる(する)。
そら豆をさやごとグリルに入れ、さやの表面が黒く焦げるまで焼く。
そら豆をき、器に盛りつけて2を塗り、お好みでけしの実適量をふる。

(ワンポイント)
 そら豆を焼く際には、両面しっかりと焦げ目がつくくらい焼くと、ちょうど中が蒸し焼きになります。

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【監修】青江覚峰
 一九七七年、東京浅草生。浄土真宗東本願寺派緑泉寺住職。
 カリフォルニア州立大学にてMBA取得。料理僧として料理、食育に取り組む。著書に『お寺ごはん』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。NHKをはじめテレビ、新聞などメディア出演も多数。