仏事Q&A

1. なぜ「焼香」をするのですか?
 お香には体臭を消して清らかにし、心身をしずめ、すがすがしくする働きがあります。
 また、その薫りは、分けへだてなくすべての人に行きわたる、仏の徳をもあらわしています。
 親鸞聖人は浄土和讃の中で、「染香人」(ぜんこうにん)つまり、香が身に染みて芳しい人ということで、お念仏の教えをよろこぶ人に喩(たと)えておられます。
 このことから申しましても、「焼香」は決して仏様や、亡くなった方のためにするのではなく、現在の生きている私のためのものなのです。
 「焼香する」という行為を通して、この私が法に遇わせていただくのです。
 日々のおつとめには線香を使います。香炉の大きさに応じて適当に折り、火をつけてから横にして灰の上に置きます。
 本数に決まりはありませんが、真宗では決して線香を立てることはいたしません。

〔焼香作法〕
①ご本尊を仰ぎ見て、軽く頭を下げる。(このとき合掌しない)
②右手の親指、人差し指、中指でお香をつまみ、いただかずに(つまんだお香を額の辺りまで上げず)、直接香炉に投じます。(佛光寺派では二回です)
③合掌礼拝
2. 真宗では「位牌」は本当にいらないのですか?
 真宗は位牌を必要としない宗教です。「位牌」とは字の如く位の牌と書き、中国の儒教で用いられてきたものでした。
 ところが、今日ではお仏壇の中に位牌があるのが当然のように思われているようです。そういう考えが仏壇=死者をまつる場所という思いを助長させるのでしょう。
 歎異抄に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず……」とあります。
 位牌を新調するという行為は父母の孝養、亡くなった方の供養になるという思いの表われであり、私たち人間のごく自然な感情なのかも知れません。
 しかし、親鸞聖人は、そういう感情をもつ自己を厳しく見据えられました。分かり易く言えば、罪悪深重の私が父母の孝養などできる身ではなかった、亡くなった方の供養ができると思うのは、生きている者のおごりであるということです。
 真宗のご本尊は阿弥陀如来一仏であります。そのご本尊を安置するお内仏は家庭の中心であり、生活の拠りどころです。
 位牌を拝むのではなく、亡き人を縁としてこの私がお念仏の教えをいただくことが肝要といえましょう。
 なお、真宗では、法名軸もしくは過去帳を用います。詳しくは、手次ぎ寺院のご住職にご相談下さい。
3. 「念珠」のいわれと作法を教えてください。
 合掌は、仏を礼拝する仏教徒の基本的な作法であり、念珠はその作法に欠かせない法具として、永い歴史があります。念珠をかけないで礼拝するということは、仏さまを手づかみするに等しい行為だと戒められた先達がおられたほどに、大切なものと言えましょう。
 お葬式やお墓参りで焼香のときに念珠の貸し借りを見受けることがありますが、ひとりひとつずつ持ちたいものです。また持ち歩くときは、房を下にして左手に持ち、床にじかに置いたりしてはいけません。
 他宗では念仏を称えて念珠を繰り、数を数えたり、こすり合わせて音を出すようですが、真宗では一切そのようなことはいたしません。
〔作法としては〕
①合掌
 背筋をまっすぐにのばし、両手をみぞおちのあたりで自然に合わせます。このとき念珠は片手ではなく、両手にかけ一輪念珠は、房が下になるようにかけます。二輪になった念珠の場合は二つの親玉を親指のところではさみ、房は左側に下げます。
②礼拝
 ご本尊を仰ぎ、合掌しながら「南無阿弥陀仏」と称え、念珠をかけて合掌したその姿勢で一礼します。
◎念珠を手にすることで仏教徒であることを自覚し、法に出遇うた喜びのもと、より一層の聞法に励みたいものです。
4. 「法名と戒名」はちがうのですか?
 真宗の教えに帰依した人に与えられる名前を法名といいます。
 戒名というのは、仏教の定めるところの守るべき戒律を授かるというところからきています。
 ところが真宗門徒には戒律がありません。それは戒律を守らなくても良いということではなく、戒律があっても守りきれぬ、いずれの行もおよびがたき身の自覚からであります。
 その私が第二の名告(なの)りをあげる、その名告りを「法名」というのです。
 第一の誕生というのは、文字どおり、この世に生を受けたということですが、第二の誕生というのは、お念仏申し、深きいのちに目覚めさせていただく人生が始まるということです。
 法名はすべて「釋○○」で、「釋」の一字は釈迦如来の「釋」をいただき、仏弟子であり、真宗門徒の証しであります。
 したがって亡くなってからではなく生前に帰敬式(おかみそり)をお受けすべきものでありましょう。
 字数が多いほうがよいとか、死後の準備と考えるのも間違いです。
 なお、本山では晨朝(おあさじ)の後、帰敬式が行われていますので、手次ぎ寺院の住職を通してお申し込み下さい。
5. 「除夜の鐘」はなぜつくのですか?
 大晦日には、各地の寺院で除夜の鐘がつかれます。
 重く、心にしみ入る大音は、撞木(しゅもく)が梵鐘にあたると同時に響きわたるのですが、あの撞木のあたる部分には蓮の華が現わされています。
 蓮の華は泥沼に根を下ろし、そこから花を咲かせます。言い換えれば、私たちが生きている娑婆そのものが泥沼なのかも知れません。
 仏説無量寿経に正覚大音 響流十方(しょうがくだいおん こうるじっぼう)
 (正覚の大音 響き十方に流る)とあります。
 泥沼の現実を生きる私に響く除夜の鐘の一音、一音は、まさに泥沼に咲く花。大晦日を迎え今年一年を振り返ってみますに、煩悩に明け、煩悩に暮れてゆく一年ではなかったでしょうか。
 テレビを見ましても明るいニュースより、目を覆わずにはおれないような悲しいニュースの方が多かったようにも思います。
 鐘の音こそ、仏さまからの「自己に目覚めよ」とのメッセージのようです。
6. 「打敷」はいつどんな時に掛けるのですか?
 打敷は荘厳法具のひとつで、金襴などで美しく作られた敷物をいいます。
 もともとは菱形や正方形の形をしており、正面から見て三角形に見えるように掛けていたようですが、現在では三角の部分だけを残した略式の形がほとんどのようです。
 前卓と上卓に掛けて用いますが、平常は掛けず、祥月命日、年忌法要や中陰、さらにはお正月、春秋彼岸、お盆、報恩講など特別のときに用います。
 打敷は、釈尊説法の座をお飾りしたことに由来し、その形が転じて現在の敷物となったようです。
 葬儀・中陰法要などには、白地の打敷を用いますが、お正月や報恩講には鮮やかで美しいものを用いるなど、行事によって色・柄を選びたいものです。
 この打敷を掛けることによって、平常とは違う特別の行事、また仏事であると認識することができます。
 「信は荘厳より生ず」と言われるように、お内仏を正しく荘厳し、お給仕を怠らずに続ける、カタチにとらわれるのでなく、カタチを通して真宗の教えが子々孫々までも受け継がれていくことが肝要と言えましょう。
7. 「お札やお守り」をお内仏の中に入れてはいけないのですか?
 先日、ある神社の前を通りましたらたくさんの絵馬が奉納されていました。
 その絵馬の一枚一枚には様々な願いごとが託されています。
 その内容は家内安全、延命息災、商売繁盛とさまざま。
 どこをとっても我欲を満たそうとする人間の限りなき欲望がうごめいています。
 そういうあり方の我が身がするどく問い返され、否定されるのが仏道です。
 高僧和讃に
     仏号むねと修すれども
     現世をいのる行者をば
     これも雑修となづけてぞ
     千中無一ときらわるる
 とあります。
 外に念仏申すという相をかたちどっていても、その中身が我が願いを満たす手段であるかぎり、それは雑修でありましょう。
 自己中心の願いを拝むのではなく、仏さまの願いに耳を傾ける場を「お内仏」というのです。
 よって、お内仏の中に、お礼やお守りを入れてはならないことは言うまでもありません。
 もし、お内仏の中にお札やお守りがあるようでしたら、手次ぎ寺院の住職にお願いして処分してもらって下さい。
8. お墓を建てたいのですが、「方角や墓相」に善し悪しはあるのですか?
 方角や場所に、いわゆる「相」があり、それによって家庭や身の回りに幸せがおとずれたり、不幸が起こったりするという考えの一種で、この墓相に関する本も、とどまるところを知らずたくさん出版されています。
 不幸が続くと「何か」あると考え、その「何か」をはっきりとした「もの」か「こと」に理由づけしないことには落ち着くことの出来ない、人間の弱さとずるさがそこにあります。
 ここに、迷信の生ずる土台があります。つまり迷信とは、真の解決を計らず、自分以外の「もの」や「こと」に責任を転嫁することです。
 墓相では物事は解決しません。それよりか、墓相で物事を解決しようとする自分自身が問題とならなくてはなりません。
 迷信に振り回され、障りなしの人生を自ら求めて障りあるものとしている身であるということに気付くべきです。
 親鸞聖人は「真実の教えを聞いて迷信から目覚め、明るく確かな正信の道を歩んでほしい」と願われています。
 ですから方角や墓相にこだわる必要はありません。
 なお墓の正面には、私たちを目覚ますはたらきである「南無阿弥陀仏」と刻むのが望ましいといえます。
 詳しくは、手次ぎ寺院のご住職にお尋ね下さい。
9. 「仏壇」はいつ求めれば良いのですか?
 「何もないとき」というのはどんなときでしょうか。
 おそらく身内に不幸がなく、平穏無事に過ごしているときのことをいうのでしょう。
 『何もないときに仏壇を求めると死者がでる』とか、たとえお仏壇があっても、『先祖の霊が宿る場所、むやみにさわって祟りがあっては困る』とかいう何の根拠もない迷信をいう人があとをたちません。
 そこには、お仏壇に対する根本的な誤解があるようです。
 お仏壇には中尊(中心)にご本尊・阿弥陀如来様を、向かって左右にそれぞれ、ご本尊様のはたらきとしての十字尊号(帰命尽十方無碍光如来)・九字尊号(南無不可思議光如来)を安置します。
 このことは、仏壇がただ単に仏様を安置する場所ではなく、そのはたらきをいただく家庭の中心であるということです。
 私達のご先祖は悲しいときもうれしいときも南無阿弥陀仏と手を合わせ、一度かぎりの大切な人生を生き抜かれました。
 仏壇は心の拠り所です。ですから、求める時期にこだわることなく、一日も早くお求めになることです。
 なお、中心となるご本尊は、必ずご本山からお受けいたしましょう。
 詳しくは、手次ぎ寺院のご住職にお尋ね下さい。
10. 出棺の時「お茶碗を割り」ましたが、どういう意味があるのですか?
 いつのころからか、出棺に際してお茶碗を割るという習慣があるようですが、真宗では一切いたしません。まず、なぜ割らないかという前に、なぜ割るのかということから申します。
 割るお茶碗は何でも良いというものでなく、必ず故人が愛用していたものに限られます。
 このことは、この世に再び帰ってきても、あなたの食べるお茶碗はありませんということを意味します。
 言い換えれば、迷って私たちに災いを及ぼさないようにということであり、二度と帰らないで欲しいというまじないなのです。
 日本では古来より死を忌み嫌い、特に死後悪霊となったものを恐れる思想があります。
 ですから、お茶碗を割るということは、死者を悪霊とみなしていることになり、宗教以前の問題であり、死者に対する最高の冒涜でしかありません。
 肉親や友人、そして有縁の人の死に臨んで心の底から嘆き悲しみ、その涙の乾かないうちにお茶碗を割るというような愚かな行為は、たとえ習慣で皆が行うからといっても、私は絶対にしないという決意を待ちたいものです。
11. はじめて「お盆」を迎えるのですが、どのようなお飾りをすればいいのですか?
 お盆というと一般に精霊棚を作りお膳を用意し、迎え火や送り火を焚いたりするようですが、真宗ではそのような行為は一切いたしません。
 お飾りといいましても、特別なことはなく、菓子・果物などをお供えし、前卓には打敷を掛ければよろしいでしょう。
 ところで、精霊棚とはご先祖の、いわゆる「霊」が帰って来る場所であり、迎え火や送り火はその「霊」が迷わずにここに帰るようにという道案内のあかりです。
 Q10で「出棺で茶碗を割る」ということについて書きましたが、帰ってくるなと茶碗を割り、帰ってこいと精霊棚を作り、そのうえ道案内の迎え火を焚く。何とも矛盾した行為であります。
 先祖を大事にする行為は決して悪いことではありません。しかし、生きている者のその時々の都合によって、先祖を敬ったり悪霊としたりする行為は、良いこととはいえません。
 習俗化した仏事の中には、往々にして仏法とかけ離れたものが多くあります。
 聞法することを通して、お盆・お彼岸・年回法要等々を本来の仏事としたいものです。
12. 「お仏飯」はなぜお供えするのですか?
 お仏飯は、毎日炊き立てのご飯を盛槽で形を整え、仏器に盛ってお供えします。
 朝のおつとめの前にお供えし、お昼前にお下げする習わしになっていますが、おつとめが終った後ただちにお下げし、あたたかいお仏飯をいただくこともまた有難いことです。
 最近では、朝にご飯を炊かず夜に炊かれる家庭が増えてきましたが、その生活事情から朝ではなく夜にお供えするのも致し方ないことでしょう。
 大切なことは、お仏飯は亡くなった人に召し上がっていただくためではなく、仏徳讃嘆のためにお供えするということです。
 私たちは日々、様々な物を目にし、たくさんの量り知れないいのちを頂き生きています。
 私のいのちと言うておるけれど、実は無数のいのちが形をかえて今の私を形成して下さっているのではないでしょうか。
 私たちが主食とするご飯を仏さまにお供えすることによって、自らの上に与えられたいのちを精一杯生かさせていただくということを、お念仏と共に再確認させていただくことこそ、お仏飯の意義であります。
13. 「リン(鈴)」は何のために打つのですか?
 テレビドラマなどでのお仏壇に向かうシーンや、お仏飯をお供えした時など、必ずといっていいほどリンを打ってから合掌礼拝をしています。確かに、見ていて美しく清らかな姿に思えます。
 しかし、真宗においては、お内仏の前に座ったときは必ずリンを打つという作法はありません。いつの間にか、他宗の作法が当然のことになってしまったようです。
 リンに限らず、いわゆる鳴り物(梵鐘・喚鐘・太鼓・馨等々)は『時』を知らせると言う意味と、阿弥陀如来をはじめ諸仏・諸菩薩の入堂を請うという意味があります。
 例えば、お寺によって時間はまちまちでしょうが、梵鐘をつきます。昔は、たんぼに出ていても、寺の鐘で時刻を知ったようです。
 またリンは、いわば「これからおつとめが始まります。阿弥陀様はもちろん、仏となった先祖をはじめ諸仏の入堂です」という合図であり、それまでざわついていた法事の席も、姿勢が正され厳粛なムードになります。
 ですから勤行以外では、リンを打つ必要はありません。
 なお、リンを打つことは勤行における重要な作法ですから、打ち方等々、お手次ぎのご住職にお尋ね下さい。
14. お内仏の掃除と、仏具の「おみがき」の仕方を教えてください。
 掃除やおみがきが行き届いているお内仏にお参りするということは、気持ちのいいものです。それゆえに、お内仏の掃除とおみがきは、大切なお給仕の基本といえます。

掃除の仕方
 漆や金箔などの部分には細心の注意が必要です。
 漆塗りの部分は柔らかい布や仏具店で売っている専用のダスターで空拭きをします。決して市販の化学ぞうきん等を使ってはいけません。
 また、金箔の部分は絶対に拭いてはいけません。
 毛箒などでかるくほこりをはらうだけにしておきます。
 細かい彫刻の部分用に、専用の筆を準備しておけば便利です。

おみがき
 「おみがき」とは市販されている金属磨きで仏具を磨くことをいいますが、真鍮製のものに限ります。
 宣徳製の仏具はもちろんのこと、最近では真鍮にメッキを施したものや、経年変化防止のために表面にコーティングを施したものもあり、それらのものには金属磨きを使用できませんので十分に注意して下さい。
 法事や行事の前には家族でおみがきをし、心新たに迎えたいものです。
15. 真宗では「般若心経」をあげないと言われますが、なぜですか?
 般若心経は、写経をはじめひろく一般に受け入れられている、わずか二百六十二文字の短いお経です。
 その内容は菩薩の智慧(般若)を得て、仏の悟りに近づく自力の実践行と言っていいでしょう。
 いわば自己の力の実践において悟りを得るのですから、自力を尽くし切れるエリートしか救われない教えと言っても過言ではありません。
 ある先師は、「論理に偏り過ぎ、そこに自我がついてくる悪取空というものがでる」とも仰いました。
 親鸞聖人は、一切の自力の行を積むことの出来ない、たとえ積むことができても、最後まで積み通せず、仏の悟りに近づけないわたしたち凡夫を「いずれの行も及び難き身」とお示し下さいました。
 そのことから申しましても、菩薩の智慧(般若)を得て、仏の悟りに近づくという自力の実践行は、かえって無条件に救うと誓われた阿弥陀如来に背く歩みと言えます。
 努力を否定するのではありません。いかなる力もわが力に非ずという絶対他力の中に生かされてあることに驚き、讃嘆されたのが、親鸞聖人でありました。
 その教えをいただく真宗門徒に、般若心経のお勤めはありません。
16. 「花まつり」について教えてください。
 花まつりとは灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)といって、お釈迦さまのご誕生をお祝いする行事です。
 お釈迦さまは、古代インドのカピラ城の城主、浄飯王(じょうぼんおう)と摩耶(まや)夫人の間にお生まれになりました。
 七歩歩まれて右手で天を、左手で地を指さして「天上天下唯我独尊」と宣言されたということはあまりにも有名です。
 常識から考えると、生まれたばかりの赤子が、七歩も歩めるはずがないと言われるかも知れません。
 しかし、ここでいう七歩は六歩を超える、つまり六道を超えるということです。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天を指します。
 すなわち「七歩」ということは、迷いの世界、六道を超えるということを意味します。
 また「天上天下唯我独尊」という宣言は、この世の中で私ひとりだけが偉いというようにとられ、誤解されやすいですが、「私ひとりだけが尊い」ではなく「私ひとりにして尊い」ということです。
 それはすべての人の上に成り立つ宣言で、それぞれにそれぞれが尊き命を賜っているということです。
 お釈迦さまがお生まれになったのは、今から二千五百年ほど前のことですが、その教えは永き時間・空間を超え、今なお私一人の上に働き続けて下さっています。
17. 「お経」は何のためにあげるのですか?
 お経を「あげる」といいますが、「あげる」中身は「いただく」ということです。「いただく」とは、亡き人を縁として「仏法」を「いただく」ということです。
 お経は釈尊の説法です。生身の身体を持った人間を相手に説かれた教えです。その教えを「いただく」のです。
 ですから「お経は亡き人の追善供養のためにあげるもの」ではありません。
 読経は元来、お経を記憶し流布することと、その教義を理解して実践することの意味でしたが、大乗仏教に至って読誦そのものにも宗数的意義(行)が認められるようになり、その上、日本や中国の土着宗教と交わり、死者供養・雨乞い等にも使用されるようになり現在に至っています。これらのことが読経に対しての誤解を生み出したのでしょう。
 また、真宗におけるお勤めは「教えをいただく」だけにとどまらず、その教えの主である仏様をおほめする、つまり「仏徳讃嘆」を意味します。
 私のような者でも救わんとする仏様のご恩に報いる道は、お徳を讃嘆し、仏様に帰依するしかないのです。
 そのお言葉を「南無阿弥陀仏」と申します。つまり、お念仏を称えることは、お経をあげることにつながっているのです。
18. 人が亡くなると、「忌中」と書いた紙を貼りますが、なぜですか?
 仏教では、人が亡くなった後の四十九日間を「中陰」(中有・中蘊)といいます。ところが、いつの時代からか「忌中」という言葉も使用されるようになりました。
 「忌」とは「忌み嫌う」という意味で、神道やその他の土俗信仰からきており、習俗の中で多くの禁忌を生み出し、死さえも死穢(死のけがれ)として忌み嫌うようになりました。
 その上、死穢は伝染するからそれを防ぐため塩で清めるとか、「死穢があります」との「忌中札」を貼るような風習さえも生み出しました。
 そういう意味で「忌中札」は無用のものでありましょう。
 しかし、「忌」には「忌み慎む」という意味もあります。雑事を忌み嫌い、身を慎み、仏事に耳を傾けるということです。
 一周忌・三回忌等々の年回法要の「忌」がこれにあたり、「忌中札」の「忌」も本来この意味だったのでしょうが、現在では前述のように使われています
 近親者の死という事実とその意味から目を背け、「忌中札」を貼り、ただ「穢れ」、「清め」・「鎮魂」だけに走っている自分に気づき、中陰をご縁に、仏法を聞く身にさせていただくことこそが大事なのではないでしょうか。
19. 真宗では「お茶やお水」を供えてはいけないのですか?
 あるお宅で、同じ質問を受けたときのことです。「なぜお供えするのですか」とこちらが逆に問い返しますと「ご先祖さまの喉が渇かないように……」という返事がかえってきました。
 しかも、これはおじいちゃん、これはおばあちゃんというように、自分の記憶にある先祖だけに水を供えておられるのです。
 心情としては、分からなくもないのですが、この行為は浄土に還られたご先祖を仏としてではなく、喉が渇いたり、おなかが空く餓鬼として見ているあり方なのです。
 では、真宗ではまったく水を供えないのかというとそうではありません。
 「華瓶(けびょう)」という仏具の中にすでに水があがっており、その水がいつでも清浄であるように、樒をさしてあります。
 お仏飯は仏飯器、水は華瓶でお供えするように、荘厳のひとつひとつは仏さまへの報恩謝徳の現れといえましょう。
 尚、華瓶のない場合は、あえてお供えする必要はありません。
 また、茶湯器やガラスコップなどでお茶やお水を供えることは「追善」の色が濃く、真宗の教えにそぐわないので一切いたしません。
20. 「お彼岸」について教えてください。
 お彼岸は春分と秋分の日を中心とする一週間をいい、インドや中国には見られない日本独特の仏教行事です。
 彼岸とは梵語の「波羅蜜多」、訳して「到彼岸」の略で、彼岸つまり浄土を意味します。
 「彼岸」に対し、こちら側の岸を「此岸」といいます。
 七高僧のお一人である善導大師の「観経疏」には、「その日、正東より出て、直ちに西に没すればなり。弥陀の仏国は日の没するところにありたり」とあり、大師を非常に崇敬せられた源信和尚は「往生要集」において、「春分秋分の二時の日没所は、極楽の東門に当たる」と述べて、お念仏を勧められました。
 つまり、その日太陽が真東からのぼり真西に沈むことから、西方の10万億土の地にあるとされる浄土を願うことが彼岸の始まりであり、同時に浄土に還られたご先祖を偲び、墓参りをするという習慣が定着してきたのです。
 お念仏の教えをいただく私たちは、お彼岸だからといって特別なことはしませんが、「忙しい」と走り回る足をしばし休めて、亡き人を偲び、今を生きる私が仏法に遇うご縁といただきたいものです。
21. 真宗門徒にふさわしい「弔電」を教えてください。
 葬儀に参列して何気なく聞き流してしまうが弔電です。「○○さまのご逝去をいたみ、謹んでご冥福をお祈りいたします」というのが一つのパターンのようです。
 冥福とは、あの世での幸せを意味しますが、浄土往生を遂げ、仏さまとならせていただく真宗の教えでは必要ありません。
 それよりも、冥福を祈らずにはおれない根底には、死者を仏さまとしていただけず、自らもお念仏に生きることなく、迷っている自分の姿があります。
 また、「安らかにお眠り下さい」という言葉もよく耳にしますが、仏さまとなられた亡き人は私たちに「自己に目覚めよ」と願っておられるのです。
 弔辞や弔電は哀悼の意を表すものですから、一般的な例をあげて申し上げるならば「ご逝去の報に接し、心から、お悔やみ申し上げます」「つつしんで哀悼の意を表します」など簡素なものが、ふさわしいのではないでしょうか。
 加えて「草葉の陰」「ご霊前」や「昇天」「泉下」という言葉も好ましくありません。
 わずかなことと思われるかも知れませんが、いただいた弔電ならともかく、真宗門徒を名乗る身であるならば、自己の在り方を問われる大切な事柄です。
 言葉一つにも気をつけたいものです。
22. 「お性根入れ」について教えてください。
 お仏壇を新しくされた時やお墓を建立された時、俗に「魂入れ」「お性根入れ」と呼ばれる法要が勤められます。
 しかし、よく考えてみますとお念仏の教えをいただく私たちが、仏様の魂を入れたり、お性根を入れたりするというのは、ずいぶん思い上がった言い方ではないでしょうか。
 真宗では、お仏壇に新しくご本尊をお迎えする法要を「入仏法要」といいます。
 「入仏法要」とは、家庭の中心となる仏様をお迎え出来たことを喜び、そのお徳を讃える法要です。
 以前、ある聞法熱心なおばあさんのお宅で「入仏法要」を勤めさせていただいた時のことです。勤行を終えると、そのおばあさんが「これは、仏壇ではない、いまご院さんにお勤めしてもらったから、お内仏や」と言われたことが今も脳裏に残っています。
 古くから真宗門徒は、お仏壇をお内仏と呼び習わし、心の拠り所としてきたことがこの言葉から改めて知らされたことでありました。
 そのことから申しますと、どこまでいっても自己中心的な在り方、仏様の性根まで入れかねない傲慢な私の性根を、根底から叩き直していただく場が「お内仏」でありましょう。
 補足となりましたが、以前からご本尊があって、新しいお仏壇にお移しする場合や、お仏壇をお洗濯(修理)に出される場合は「遷仏法要」といいます。
23. 「厄年」について教えてください。
 まず、質問の内容から吟味したいのですが、ご主人の「厄年」をどう受け取ればよいのかという質問なのか、あるいは、「厄年」を迷信と思いつつも、何か心に引っ掛かる「私」をどう受け取ればよいのかという質問なのかを、はっきりさせる必要があります。
 いわゆる厄年は、体に変調を起こしやすい年をいいますが、それ以上に霊的なことを思われているようでしたら、その厄年を迷信と思いつつも、心に引っ掛かる「あなた自身」に問題があるようです。
 ある先生から聞いた話ですが、その先生は飛行機によく乗られその度に「落ちないだろうか」と心配される。
 しかし、シートに体を沈めてよくよく考えてみると、「落ちないだろうか」と心配することと「落ちる」ことは別のものということがわかった。そして私たちは生活の中で、「当てが外れる」と言うが、当てとしないこともまた外れるものだと教えていただいたことがありました。
 いただいた一年を「厄年」という言葉に縛られて、ビクビクと生きるより、予期せぬ出来事が起きたら起きたで、そこをご縁として生き抜く智慧を賜りたいものです。
 毎日、毎日が生まれて初めての尊き一日です。
 お念仏を申す生活に「厄年」という年はありません。
24. 「先祖供養」について教えてください。
 まず、あなたのおっしやる「先祖供養」とは、どういうことでしょうか。
 もし、お経をあげる、お供え物をする、そういうことが先祖の供養と思われているようでしたら、残念ながら真宗には、そういう意味での先祖供養はありません。
 法事をした時に、「先祖のために……」と言われる人ほど「これでホッとしました」と言われますが、そこには「供養をしてあげた…」という生者の思い上がりしか見えず、先祖のことなど、どこかに飛んでしまっています。
 実は、そのような我身が問題となり、そのことを問わずにおれなくなるのが、お念仏のはたらきなのです。
 親鸞聖人は先立って亡くなられた方々を「諸仏」として拝まれました。
 それは、こんな私を南無阿弥陀仏の教えに導いてくださった尊い方々であるということです。
 具体的に申し上げるならば、私たちは先立って亡くなられた方がなければ、お念仏はおろか手を合わせることすらしないのではないでしょうか。
 亡き人を通して、この私がお念仏の教えに遇わせていただくこと、これこそ本当の意昧での供養ということでありましょう。
25. 「方便」とはどういう意味ですか?
 お仏壇を新調するにあたって、ご本尊をお願いしましたところ、裏に「方便法身尊形」と書かれてありました。「嘘も方便」とはよく使う言葉ですが、それとここで使われている「方便」とはどのように違うのですか。
 「嘘と坊主の頭はいった(結った)ことがない」とは市井の駄洒落ですが、人間が救われる真実の道を伝えようとする仏教が、「嘘も方便」とは納得いかないと思います。
 もともと「嘘も方便」という場合の方便は、真実を伝える手段としての比喩を表わし、その比喩は本物ではない、つまり偽りであり嘘だ、ということから派生したものです。
 ところで、方便には二つの解釈があります。一つは前述したように、真実に誘引せんがための仮の手立てという意味。もう一つは、真実は方便となって衆生に働くという意味です。
 前者は教育等種々使われていますが、後者は仏教だけです。
 無相無色(形も色もない)の法身が、形や色でしか判断出来ない私に、有相有色の身となって働く。
 そしてその働きを通して働きこそが法身であったと頷かしめることを方便という。
 神仏を実体化し、約束や許しを乞う宗教とは異なり、真宗のご本尊は働きを意味します。