お話

大遠忌ってなに

大遠忌
 平成二十三年には親鸞聖人の七百五十回忌をおつとめしました。五十年ごとに巡ってくる聖人のこの年忌法要を特に大遠忌と言います。
私たちは身内の者が亡くなれば法事をつとめます。一年目が一周忌、二年目が三回忌、六年目が七回忌、このようにして、十三、十七、二十三、二十七、三十三、そして五十回忌までつとめます。
 普通はここで終わりですが、さらにこの後五十年ごとに百回忌、百五十回忌とつとめていく場合があります。世に何か大きな功績を残された方や子々孫々忘れてはならない人の場合です。
 真宗門徒において、最も忘れてはならない人は宗祖親鸞聖人です。
 私たちが人生の苦悩から救われる道がお念仏ただひとつであることを、聖人は身を以て明らかにしてくださったのです。
 
ご開山
 宗祖親鸞聖人と聞くと、何か遠い雲の上の人のように思ってしまいますが、実際の聖人はそうではありませんでした。むしろ私たちにとって大変近しい人でした。
 世に「大師は弘法に奪われ、開山は親鸞に奪わる」との言葉があります。
 何宗であれ、一宗をお開きになった宗祖は、皆「ご開山」なのですが、真宗門徒ほどその宗祖を「ご開山、ご開山」と親しみを込めて呼んできた宗旨はないのです。
聖人自身も、念仏の道を歩む者は皆同じ仲間、同じ友人だと考えておられました。だから、たとえ相手が誰であろうとも、常に私とあなたは「御同行」「御同朋」なのだとおっしゃったのです。
 阿弥陀如来の下においては皆平等、これが聖人の徹底したお考えでした。ですから、「私は親鸞さまのお弟子だ」と言う人に対しては、「私はお弟子など一人も持っていない。あなたが念仏を喜ぶようになったのはひとえに阿弥陀如来のお力であって、私が何かをしたからではありません」ときっぱりとおっしゃったのです。
 
阿弥陀さま
 では、阿弥陀如来とはどのようなお方でしょうか。
 阿弥陀如来は、私たちがどれほど忘れていようと、背いていようと、私のことを決して忘れることなく、寝ても覚めてもまるで親がたった一人のわが子を思い続けるように、常に思っていて下さる方なのです。
 このように言えば、阿弥陀如来とは人間のような生命体かと思われるかもしれませんが、そうではありません。そのはたらきを擬人化し、またそのはたらきの偉大さに敬意を込めて「阿弥陀さま」と呼ぶのです。
 この阿弥陀如来のはたらきに、最初に気づかれた方がお釈迦さまでした。もちろん、阿弥陀のはたらきは、それこそ人類が誕生するずっと以前から存在していました。ですから、お釈迦さま以前にも、そのはたらきに気づいた人はいたかもしれません。しかし、そのはたらきを他の人に教え伝えられたのは、お釈迦さまが最初だったのです。
 お釈迦さまが阿弥陀のはたらきをお説き下さったお蔭で、その教えを聞いて喜んだ人が、お念仏を申すようになり、また次の人にお念仏を伝えて行ったのです。こうして阿弥陀の教えは、インドから中国、日本へと伝わって行きました。
 
弥陀の大悲
 聖人は、九歳で得度(仏門に入門)し、それから二十年間を比叡山で修行されました。
 人生の苦悩、不安、悲しさ、空しさを人一倍強く感じられた聖人は、絶対安心の境地を求めて修行されたのです。ある時は命がけの厳しい修行をし、ある時は必死で念仏を唱え続けられました。しかし、どれほど自力の限りを尽くしても、絶対安心の境地は得られなかったのです。
 自力に破れた聖人は、もはや自分の力ではどうすることもできなくなり、ついに比叡山を下りて、すがる思いで法然上人の門を叩かれたのです。
 法然上人は特別な事をおっしゃったわけではありません。「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とだけおっしゃったのです。
 機が熟していたのでしょう。そのひと言が、聖人の胸に稲妻のように響いたのです。阿弥陀如来の大悲が聖人の胸に至り届いた瞬間でした。このようにして、聖人は他力の信心をいただかれたのです。
 
恩徳讃
 聖人は生涯に五百余首近い和讃をお作りになりました。その中で私たちが最もよく知っている和讃が恩徳讃です。
 如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし
 私が阿弥陀如来から受けたご恩というものは、私の身を粉々になるまで報じても、まだ足りないほど大きなものである。同時に、その阿弥陀のはたらきを、私に教えて下さった諸師先達や善知識に対するご恩も、骨を砕いても報謝しきれないほど大きなものである、と聖人は詠われています。
 聖人が如来の大悲を感得されたのは、二十九歳の時でした。その時の喜びがいかに大きなものであったか容易に想像がつきます。しかし、人間の感情には、その場限りのものや、錯覚ということもあります。
 その意味で、この和讃が聖人の最晩年(八十五歳以降)に、しかも、正像末和讃の一番最後を結ぶ和讃として作られたということは大変大きな意味があるのです。
 つまり聖人は、阿弥陀如来の大悲が真実まことであり、それがいかに大きな救いであるかをご自分の一生涯の身を通して明らかにしてくださったのです。
 
真宗門徒
 将来を嘱望されていたある青年は、交通事故によって完全に手足の自由を奪われました。何度も死を考えた彼は、さいわい、家が浄土真宗であったことから、念仏の教えに出遇い、「自分はまだ生かされているじゃないか、目も見えるじゃないか、口もものが言えるじゃないか、耳も聞こえるじゃないか」と方向が百八十度転換したといいます。そして、「私にとってお念仏というのはまさしく勇気でした。勇気そのものでした」とおっしゃったのです。
 寝たきりだったあるお婆さんは、訪問看護にやって来たヘルパーさんに、「一日一日を喜ばしてもらおうよ、それができなかったら一時間一時間を喜ばしてもらおうよ、それができなかったら一分一分を喜ばしてもらおうよ、それができなかったら吐く息吸う息を喜ばしてもらおうよ」とつぶやくようにおっしゃったのです。
 熱心な聞法者であったもう一人のお婆さんは、最後はガンが全身に転移し、八十二歳で亡くなられたのですが、お見舞いに来られた法友に、「そりゃああなた、身は辛うございますが、長い間お聞かせに預かって、心は喜びで一杯でございます。お導きどうも有難うございました」とおっしゃったのです。
 このように、数知れぬ人たちが、如来のはたらき、つまりお念仏に出遇ったことにより、それまで当たり前と思っていたことが、実はどれほど有り難く、素晴らしいことであるかを知らされ、一日一日を、いや、一息一息を「おかげさまです」「ありがとうございます」と静かな深い喜びの中に日暮らしされていったのです。
 私たち真宗門徒が、苦難や災厄はもちろんのこと、老・病・死さえもそのままいただける世界を生きてこられたのは、まったくこのお念仏のお蔭なのです。
 どうかこの素晴らしいお念仏を、聖人の七百五十回大遠忌をご縁に、ぜひ私たちの子どもや孫たちに相続していきたいものです。

私の親鸞さま

見えない出遇い
 「あなたが最も慕っている人は?」
たとえば右のような問いに対して、あなたはどう答えるでしょうか。
 たぶん、多くは身近な人の名をあげるかもしれません。父母や恩師、先輩、親友、若い人なら恋人やアイドルの名を、あげる人もあるでしょう。
 それはそれで、幸せなことです。
 慕う心を運んでその人のことを考えるとき、私利私欲はいったん、我が身を離れているからです。さらに慕わしい人が身近に誰もいないことほど、不幸なこともありません。
 けれども、少し視野を広げてみると、今はもうこの世におられなくとも、時代を超えて私一人を衝き動かす、実際には会ったこともない人が慕わしい、ということも起こりうるのではないでしょうか。
 そうした、いわば見えない出遇いが、心の最深部ではじまるとき、それを「宗教的出通い」と呼びます。
 以前、ある報道機関が「我が国の宗教家であなたが一番好きな人物は?」というアンケートを行ったことがあります。
 その結果、ダントツで一位だったのが親鸞さまでした。
 識者の分析は、親鸞さまの深い人間理解と人間を見る眼の確かさ、そして煩悩という誰もが抱える根本的な悩みと迷いに、正面切って向かい合った正直さ、その辺りに共感が集まったのではないか、というものでした。つまり、慕わしい人だったのです。
 
慢心の深さ
 知名度、人気ともに大変高い親鸞さまですが、それでは果たして、私たちはどれくらい親鸞さまを理解しているのでしょうか。理解というのが適切でないなら、どれくらい親鸞さまのおこころをいただいて生きているのでしょうか。
 自分に関して言えば、とてもお恥ずかしいとしかいえない身の事実が、見えてきます。
 かつて、親鸞さまの教えを学び、また聴聞されて来られた人がいました。
 あるとき別の人がその人に向かって「君も大分親鸞さまに近づいてきたね」とほめると、「いや、まだそんな高いところへは行っていないよ」と答えるものですから、「誰が高いところと言った?君もやっと親鸞聖人のところまで降りてきたね、と言ったんだ……」
 右の応答で気づかされるのは、すぐ高い所へ登りたがる自分、気づかぬうちに慢心している自分の姿です。
 
かけがえのない一人
 そんな私に、親鸞さまはくり返しまきかえし、自己の本性、自己の位置を教えて下さいます。煩悩だらけの人間だよ、と。
 その親鸞さまは、法然上人という生涯の師を終生尊ばれました。特にめずらしい法を弘めているのではありません、と念仏の伝統の中で徹底して法然さまをはじめとする先人を立てておられるのです。
 人はみな、一番になりたがります。
 企業の戦士からスポーツ選手まで、それは偽らざる人の世の競争心理でしょう。一番ではなくとも、人より明らかに下というのは、正直、我慢がならないものです。だから努力します。そして挫折します。
 親鸞さまの歩んだ道は、ナンバーワンではなく、オンリーワン。他人に勝って上に立つのではなく、如来に見いだされたかけがえのない一人を自覚するのです。
 
 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり
 
 『歎異抄』に述べられたその「一人」です。それは、人と比べる必要のない世界、如来と私とが一切のまじりものを排して向かい合う、徹底して純粋なる信心世界です。
 同じ『歎異抄』の次のおことばは、あまりにも有名です。真宗門徒のいかに多くの方が、この箇所をそらんじては、「信」の一念の確かめとされたことでしょう。
 
 親繋におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり
 
信心の行者
 従来仏教は、教えがあって行じて証する、「教行証」の三つがその内容でした。いわば当り前とされていた「信」を「真実の教・行・信・証あり」というかたちで改めて重要視した最初の人が親鸞さまでありました。
 ここには、その「教行信証」が、ある意味で端的に顕わされています。
 「ただ念仏して」が「行」、「弥陀にたすけられまいらすべし」が「証」、「よきひとのおおせをかぶりて」が「教」、「信ずるほかに別の子細なきなり」が「信」という具合です。
 そしてここにはまた、見事なまでに自立し、独立した信心の行者としての親鸞さまがいらっしゃいます。「ほかに別の子細なきなり」というのは、それで充分だ、他に何も必要でない、ということです。ですから全体はちょつと聞くと消極的な発言にとられがちですが、実は、先の「一人がためなり」とあわせて、ゆるぎない自信に満ちた、人間としての一種の「独立宣言」なのでした。
 
時を超えて
 二十世紀は、振り返って科学と戦争の世紀といわれました。二十一世紀は、何の世紀になるのでしょうか。
 百年後に、あまり芳しくない称号を付されないためにも、真実の宗教を求めてゆくことが、地球的課題となってきているのではないでしょうか。
 七五十年の時を超えて、親鸞さまは、共に歩みましょう、と私たちに呼びかけて下さっています。
 親鸞さまは、私にとってまず第一に、歌の文句ではありませんが、心深き人であります。そして真実の人、さらに懐かしき人、涙に泣き濡れたなら、人の世に疲れたなら、いつでもそのあたたかいふところに帰ってゆける人です。

いま、お寺は

お寺の起こり
 北インド地方でお釈迦さまが出家され、覚られ、初めて説法された時には、まだお寺というものはありませんでした。お釈迦さまの真実の話を求めて、人々が集まるようになって初めてお寺が形成されるようになったのです。有名な「祇園精舎」も地元のお金持ちが仏教に帰依し、お釈迦さまと集まって来る人々のために建てられたのでした。このようにお釈迦さまが説法され、立ち寄られた所にお寺が造られていくようになったのです。
 その後、仏教は西城から中国・朝鮮半島を経てわが国に伝わるのですが、仏教を国教とした国々では仏教を擁護し、寺院を造営していきました。反面、同じ国でも時代によっては廃仏毀釈を断行し、仏像や建物を破壊し経典を焼き捨てたこともありました。
 わが国に初めて仏教を取り入れられた聖徳太子は、法隆寺や四天王寺などの寺院を国家事業として建立され、仏教の精神で国を治めようとされました。太子の死後一旦排斥された仏教は、奈良仏教として開花し、大仏殿として結実しました。しかし、僧侶が政治に口出しするようになり、仏教教団は次第に堕落していくことになります。奈良から京都への遷都を契機に伝教大師が比叡山に天台宗を、弘法大師が高野山に真言宗を開きました。わが国の仏教の主流は奈良の寺院から山岳仏教に移るのです。
 
真宗のお寺
 人里離れた山中での修行は仏道の原点に戻る意味では有効でしたが、僧侶の仕事は鎮護国家と貴族の病気平癒のための祈祷であり、仏教は相変わらず一般大衆から遊離したものでした。しかし、平安時代末期になると山を降りて一般大衆に仏教の救いを説く僧侶が続々と現れました。世に言う鎌倉仏教の祖師たちです。お釈迦さまの時代と同じ在家仏教が誕生することになったのです。そのお一人が親鸞聖人であります。
 親鸞聖人は、流罪の地にあっても、生活の場、仕事の場で「南無阿弥陀仏」のお話をされて行かれました。時には野良仕事を手伝いながら、時には炉端で囲炉裏を囲み、栗粥をすすりながらお話をされたようであります。そして、大勢集まってお話をされる場合は、近くのお堂を借りて「名号」を掛けてお話をされました。親鸞聖人亡き後は、聖人面授の弟子たちを中心に法義相続が行われ、その集まる建物が「聞法道場」「念仏道場」として維持され、今日の真宗寺院が形成されてきたのです。
 
お寺のある風景
上りの新幹線が京都駅を出てしばらくすると、車窓から近江平野に点在する小さな集落が目に飛び込んできます。その集落には必ずといってよいほどお寺が建っています。時には二、三ケ寺ある集落もあります。お寺が地域社会に溶け込んでいるのがよく分ります。親子、夫婦喧嘩、家庭の問題等もお寺に持ち込まれ、お寺はその地域住民の人生の指標、人生問題の解決の場としてより身近であったようです。本来、仏教は自分を習う宗教です。とりわけ、真宗は聴聞第一、「南無阿弥陀仏のおいわれを聞け」といわれますが、それは「本当の自分の姿を照らし出す智慧の眼を頂きなさい」ということです。その場所が聞法道場つまりお寺ということです。その役目は今も変りませんが、時代背景の変化もあって昔のようにはなかなか行かないようであります。
 
地域の中で
 それでは、今そしてこれからの時代、お寺はどのようにあるべきでしょうか。
 ある都市寺院の裏手にある市の職員住宅跡地のことです。次の使用目的が決まっていないことを幸いに、貴重な公有地を有効利用するため、またマンションの無制限な林立に歯止めをかけるため、そこに室内温水プールと小ホールの建設を要請する運動が立ち上がりました。もう三年を経過しますが、その運動の世話人会の会議所に、そのお寺が使われています。住職夫妻も参加して、職業的に多士済々の世話人たちは、活発に運動を展開しつつ、「お寺で会議所を貸してくれるからありがたい」「お寺って落ち着くんですよね」「本来、お寺ってこういう風に地域と密着しているもんなんですよね」と好意的にお寺を再評価してくれているということです。そのうち、「念仏ってどういうものなんですか?」など、み教えに直結する質問が多くなったそうで、こうなれば、お寺本来の役割が回ってくるわけです。
 また、要請の実現に向けて、世話人会はアンケート調査、署名運動、市長交渉などを行いつつ、そのお寺の境内で二度のフェスティバルを開催し、神社のお祭り顔負けの盛況と動員力を見せています。開かれたお寺の一例といえます。
 お寺を「場」として周辺住民の方々に提供し、親しみを憶えてもらい、お寺の「良さ」を見直していただくことが求められています。
 
お寺と若い世代
 先日、門徒さんの家族だけでの法事の席で、若い兄弟がお勤めの合間に『南無阿弥陀仏ってなんですか 』と素直に聞いてこられました。『仏さまの言葉です。仏さまの心です。仏さまは色も形も見えませんが、南無阿弥陀仏の言葉、声となって私たちと遇うことができます。「南無阿弥陀仏」の言葉を開くと、慈悲と智慧との内容です。慈悲は私たちの「苦」を慈しみ悲しまれる心、智慧は私たちの苦を抜き、念仏を歓ぶ手立てとしての働き。それは限りない寿と限りない心を持つ方から、全てに限りある私たちへの仏徳であります。今、拝読している浄土三部経には「南無阿弥陀仏」の徳が書かれています。法事は先立たれた人をご縁として、残された者が仏徳を讃嘆する場所であります』と答えますと、『へえーそうなんですか』と目を輝かせていました。
 核家族化が進み、以前のような信仰環境が崩れ、環境不足になっているのは否めないことでありますが、人生の色々な問題を如何なる世代も答えを探しているのでしょう。その解決の糸口となる場がお寺であろうと思います。

「みんな みんな 意味がある」

根本の願い
 「人間なんのために生きとるげん」
もしこんなことを、小さい子からいきなり聞かれたら、どう答えますか。これは小学校一年生、まゆみちゃんの作文だそうです。石川県の松任小学校で入学後一ヶ月のまだ文字を習ったばかりの子どもたちに、自分の気持ちを自由に表現するように教えて書かせた文集『子供の目』の中にあったものだそうです。
「私はなんのために生きているのか」どうでしょうか。ちょっと即答できませんね。「なんのために生きとるげん」とは、目的を問うていると同時に、ずばり「人間ってなんだろう」という本質の問いでもあります。別に悩んだ末の言葉ではなく、おそらくはふと浮かんだ気持ちを文字にしただけでしょうが、本当に大きな問いです。
 「今は子どものために頑張って働いている」「教育費が足りない」「家のローンのため」等、直面している問題はあっても、冒頭の問いに答えていない思いが残ります。その時々の状況の説明ではなく、もっと本質的なこと、「生きている」ってどういうことなんだろう、という問題は手付かずだったのです。
現代人は生きることそのものの根本感覚を失って、生きる為の手段で疲労困憊している、とはつとに指摘されていることがらですが、正面切って「人間なんのために生きとるげん」と問われてみると、何の答も持ち合わせていない私が暴露されてしまったのです。
 うまく現代を渡るためには、取りあえず勉強はできた方がいい、広い知識もあった方がいい、ということでいきおい机の上の勉強が多くなります。戸外は満天の星空なのに、机の上で星の動きの勉強をしたりします。夕日に感動する暇もなく塾通いに忙しい現代の子どもたち。カヌーイストの野田知佑さんは「受験勉強以外、大人も子供も人生体験を欠いている点で、日本の社会は重傷だ。アラスカで会った日本人青年にライフルを手渡すと、取り落とすことがよくある。これは勉強ばかりで筋肉を使わず、指の第一関節から先だけで生きている象徴的な例だ」と指摘されています。「指の第一関節から先」だけで生きている、とは思い当たる場面も多く、言われてみれば全くいびつです。
「人間なんのために生きとるげん」の問いに答えきれません。生きることの本質、どこから来て、どこに向かうのか、食わねば死ぬというけれど、食っても死ぬこの一生とはどういうことなのか、根本の問いに答えようとすれば、教えの言葉に触れなければなりません。
 
願いの中に
 仏法は生きること全体を「生老病死」と捉えます。一歩深めれば「生の内容は老病死である」という見きわめですが、私たちの本音は生はいいけど、老病死はまっぴらごめん。誕生日はお祝いするけれど、命日は考えるのもいや、が正直なところです。
でも、もう少し考えてみれば、誕生日だって知ってるつもりですが、本当は知りません。その日はお天気良かったですか、と聞かれれば明らかなように、自分からは分りません。聞かされて知ってるつもりなだけです。では命日はどうでしょう。
当然分りません。分らなくて不都合かといえば、そうでもなく、むしろ分らないから、安心して暮らしているともいえます。
もし一年後の今日があなたのご命日ですよ、と親切にも教えられたらいかがでしょうか。想像してみるのも大事ですが、どちらにせよ誕生日から命日の間を生きているのが我らの現実であり、今日、ただ今なのです。そして、その両日も実は自分では分からない。分からないけれども、見守られているのではないでしょうか。
誕生日は親たちに見守られ、命日は親族に見守られ、もし誰も近くにいないにしても仏に見守られている確信が、浄土の世界ではないでしょうか。
そういう確信が南無阿弥陀仏の一声で開かれるのが、念仏の教えではないでしょうか。その念仏の教えに帰れば、私たちの一生は「生老病死」と共にあり、また諸仏に見守られた一生なのです。
つまり私たちの一生は、願われた願いの中の一生と言えないでしょうか。母や親たちのどれだけの願いの中で、「オギャー」と誕生したことか。自我の発達と共に忘れ去って成長していきますが、またわが子の誕生に無限の願いをかけて親となります。また同時にわが子からも願われて
います。
 
「父よ 母よ
 もう中学生だけど
 私が泣いていたら
 抱きしめてくれますか」
 
 滋賀県で、荒れるクラスに困り抜いた担任がクラス全員に「父よ母よ」というタイトルで書かせた作文のトップの作品です。中学二年生の本音でしょう。親からも願われ、子どもからも願われ、つまり諸仏の願いの中にあるのが私の一生です。
 そういう願いの中にある私、という立脚地が明らかになれば、身に起きてくる全てのことも意味をもって頂けるのではないでしょうか。人生に聞法という方向が生まれてきます。
限りある一生の中で、法を聞くという人生の時を持つことが、いかに尊い時かと思わされます。

変わる時代

変わる時代と心
 時代の移り変わりは、何とはげしいのでしょう。めざましいものの一つに携帯電話があります。若者はもちろん、老人にも必需品となってきているようです。携帯電話の普及で公衆電話が街角から消えつつあるからです。先進の機器は、若者に引っ張られ、高齢者にも広がっています。
 若者たちはメールや写真のやり取りで一日が始まり、そして暮れるということです。ラブレターなるものは、昔懐かしいものとなってしまうのでしょう。
 軽いノリと、楽しければいいという若者、思案をめぐらすことはダサイこととする若者文化。そこには何かしら希薄で、もろい社会が見えかくれするようです。
ある会社の上司は、若い社員と飲ミニケーションをしてカラオケに行くと、上司はこぶしのきいた演歌、若い人はリズム感のあるロックやポップスと、まるでかみ合わないそうです。上司が歌えば若い人はひそかに「ダサイ」と陰口、若者が歌えば上司は「いつ手を叩くんだろう」とおろおろする、そんな光景が思い浮かびます。まことにコミュニケーションとは難しいものだと思います。そんな一こまにも、生きることに神経をすりへらす中高年の姿があります。
 時代が変われば、考え方も変わっていきます。ちょっと昔の若者は、「今は苦しくとも十年先に楽になればいい」と、我慢をして仕事をしたものですが、今の若者は「今が楽しくなければ意味がない」といいます。就職の目安は、休暇の日数といわれるくらいです。しかし、いつの時代でも中高年と若年の価値観は、少し違っていたような気がします。
 そして、それぞれの価値観の中で、何とかうまくやっている、間に合っていると思って生きています。実は、その立脚のすべては、我がはからい、我執なのです。
 しかし、自分のはからいだけでは、どうにも間に合わない苦悩を背負って生きているのが、実はこの私なのです。
 
変わらぬ苦悩
 生きていくということは、実は大変な苦悩なのです。「四苦八苦でさっぱりわやですわ」と関西の人はいいます。いろんな苦悩に見まわれ、対処に追われ、困りはてるさまをいうのでしょう。家庭、子育て、健康の悩み、また経済上、仕事上、人間関係の悩みなど、まあ、次から次とわき出てきて、死ぬまできりがありません。いや、死んでも財産分与の問題が残ります。
四苦八苦とは仏教の言葉です。生・老・病・死という四大苦と、それに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦(※注)の四つを加えて、八つの苦があると教えられます。まさに生きていくということは、時代は変わってもさまざまな苦悩にさいなまれるということです。
 
 では、なぜ仏教は「人生は苦なり」と、まず第一番目に説くのでしょうか。
 それは私の生涯、苦しみのままで終えてはなりませんということを知らせるために、説かれたわけです。こちらの岸を越えて「彼岸」、彼の岸からの大いなる願いを聞きなさいということです。私の人生、苦悩のままで、空しく終えてはならないのです。必ず、必ず、苦悩を乗り越える道があるから、それを尋ねなさいというのが仏道です。
 
苦悩を超える人生
 そこで苦悩を超える道とは、どのような道なのでしょうか。
 苦悩の原因は、実は煩悩であり、我執なのです。仏教はこの煩悩・我執を滅することを理想とした教えですが、そこで親鸞聖人は「転成」ということを教えてくださいます。
 如来さまの悲願を聞き、お念仏を申せば、苦悩が転じられる世界が開かれるということです。つまり苦悩は私の人生のわざわいとならないということです。
 『教行信証』という聖典の初めに「悪を転じて徳と成す正智」とお示しくださいます。むしろ人生苦が、私にとって徳と成るという世界が開かれてくるのです。
 
 石川県松任市におられるあるおばあさんは、苦悩あればこそ仏様に出遇えると、お念仏を喜んでおられます。魚の行商をしながら、身体に障害のある子どもさんと暮らしておられました。いろんな宗教の人が「あなたの不安を取ってあげる」と勧誘に来られたそうですが、「この不安をあんたにあげたら、私は何を力に生きていったらええやろね。不安が私のいのちやもん」と断られたそうです。
 不安あればこそ、苦悩あればこそ、お念仏の教えの場に引きずり出してくださるのです。それは苦悩がなくなることではない。苦悩あればこそ、それを転ずる世界が、お念仏によって開かれてくることなのです。真実なるいのちの願いに出遇えるのです。
 今、ここに、変わらぬ、まことなる念仏が生きています。
 
(※注)愛別離苦―愛する者と別れねばならぬ苦悩、怨憎会苦―憎い者に会わねばならぬ苦悩、求不得苦―欲しいものが得られぬ苦悩、五蘊盛苦―人間としての生存にともなう苦悩。

私のいのち

 私たちが「いのち」という言葉を耳にしたとき『命あっての物種』という言葉があるように、何事も命あってのことで、死んだらおしまいといわれる「いのち」を思うのではないでしようか。
 
 【南無阿弥陀仏は私のいのち】
 基本理念の中に「私のいのち」という言葉が出てきます。ひとくちに「私のいのち」と言いましても、あらためて「私のいのち」とは何なのかと問われると答に窮します。
 私たちのまわりには「これは誰のものか?」と問われると「私の…」と答えなければならないことが数多くあります。
 「私の…」という言葉は、その『もの』が自分の所有物である、私物であるということを明らかにする言葉です。
 しかし「私のいのち」は私のものでしょうか。
 ある二十歳の女性が大恋愛の末、失恋してしまいました。目の前が真っ暗になり、支えとしていたものが崩れたショックに、生さる気力さえ失いました。
 「こんなことなら、自殺するしかない…」
 そう考えた彼女は心身を整え、大好きだった彼の写真、思い出の品々を処分し身辺の整理をし始めました。
 楽しかったこと、嬉しかったことが頭の中をかけめぐります。
 部屋を片付け、衣服を整え、台所からはコップ一杯の水。
「お父さん…お母さん…さようなら…」
 こぶしいっぱいに握った睡眠薬を□に含もうとした瞬間、その女性はハッとします。
「三日前に切ったはずの爪が、もう伸びている。死のうとしている私の意思に反して、この爪は、こんな私を生きよう生きようとしている…」
 その一点に気づいた瞬間、握っていた睡眠薬が手からこぼれ落ち、その場に号泣したといいます。
 私に賜った「いのち」は「私の…」という私有化を許さない、自我意識で解釈した命を超え出たものでありました。
 ところで、私たちが一般に理解している「いのち」は「命(みょう)」、つまり「量的ないのち」をまず考えます。
 あの人は長生きだ、あの人は短命だ…という尺度です。
 経典を繙くと「命(みょう)」の他に、もうひとつ「いのち」と読ませる漢字があります。
 「寿(じゅ)」。これは「量的ないのち」に対して「質的ないのち」を指します。
 たとえば、八十歳という年齢を聞くと「八十年間のいのち」と思ってしまいますが、そうでしょうか。
 確かに、この世に生を受けてからは八十年でしょう。しかし、この私が生を受けるまでには、量り知れないいのちの歴史がありました。
 
  自分の番  いのちのバトン
           相田みつを
  父と母で二人 父と母の両親で四人 そのまた両親で八人 こうしてかぞえてゆくと 十代前で千二十四人 二十代前では? なんと百万人を越すんです 過去無量のいのちのバトンを受けついで いまここに 自分の番を生きている それが あなたのいのちです それがわたしの いのちです
 
「私の…」と自我意識の手中に握り込める程度の水臭いいのちではありません。
 つまり、八十歳といえども「八十年間」と限定することは許されないいのち、推し量ることの出来ない遥かなるいのちを、今共に生きているということです。
 いま、私にまで届いた「いのち」は「寿なるいのち」に覚めることにおいて、はじめて光を放ちます。
 百年生きたお年寄りも、生まれたばかりの赤ん坊も、今日という日ははじめてで二度とやってはきません。
 賜った今日一日をどう生きる。「私」という存在は、私の意識を超えたあらゆるご緑の集合体です。
 近年、子供を「つくる」という言い方をするお母さんが多くなりました。
 しかし、つくられたいのちを生きている人は、誰一人としていません。皆賜わった尊い「いのち」です。
「どうせ、死ぬのだから…」「どうせ、私なんか…」
 そんなふうにしか見ることの出来なかった眼が、南無阿弥陀仏の教えに照らされて、「せっかく生きているのだから…」「せっかくの私なんだから…」とひっくり返る。
 そうです、私に賜った「いのち」は、自我意識の解釈で了解された「命」までも突き破ってくるものでした。
 お念仏の教えを拠りどころとするところに、はじめて私のいのちは、かけがえのないものとして成就するのです。
 親鸞聖人は、そのはたらきを「南無阿弥陀仏」というのだと私たちにお示し下さっています。